どこにもいないよ




.

      


 
 
「それはね、だって積乱雲じゃないですか。入道雲って」


 カカシはそう言って、差し入れだと自分が持ってきたラムネの瓶
の口のところを摘まんで持ち、解答にあわせて左右に軽く振る。

 カロリ。カロカロカロ。カロン

  碧なのか青なのか。見る人によって違う言い現され方をされる色
をもつガラス玉が、カカシの手の中で、ぐるりぐるりと転がって、
懐かしいイメージの高い音を響かせた。
 ガラス製の瓶は、分厚くて重たい造りをしてる。 
  なのに、カカシの長い指に摘ままれて宙にあるさまは、華奢で軽
くて、不思議な造形をもつ、可愛らしいベルのようだ。


「――積乱雲だと、どうして明日晴れるんですか?」


 イルカは、自分の手の中の瓶に浮かぶ水滴を楽しみながらカカシ
を見た。明日も晴れますね。そうですね。何故なんだろう。だって
積乱雲じゃないですか。――あの雲は。
  口布を下げた片目の色男はニヤニヤとして。


「イルカ先生。自分だってさっき、入道雲が出てますよ。じゃあ明
日もお天気ですねって言ったじゃないですか」
「昔から皆言うことでしょう」
「あれー、先生、実は理屈知らないの?」
「理屈なんて、忘れました。夏の雲はね、入道雲」


  本当に忘れた。覚えてない。
  青い空に高く高くもりあがった、雲。
 その白さも眩しく。理屈なんて。
  夏は、こんな空は、どこもかしこも光が乱反射して、あまねく世
界は照らし出される。身に憂いを持つ大人は肩身が狭い。夏とはそ
んな季節だ。狭苦しい木陰で、天気について語り合う大人二人。
  夏らしいといえば、この上なく夏らしい。
  か?
  どうだろう。


「そういう古めかしいとこ――、イルカ先生、もろに、あの爺さん
の影響かぶっちゃってるよねー」
「そういうこと言うひとは、日向に追い出しますよ」


 言ってイルカは右腕で隣に並ぶカカシの肩をぐいと押した。 
 校庭のすみっこの木の根本。日はまだ高く、木陰の面積はとても
狭い。小さな楕円。そんな窮屈な日蔭にくっつくようにして二人は
無理やりおさまっていたのだから、そこからちょっと押しだせば、
すぐに強い日差しの餌食にされる。

「イルカ先生ー、溶けちゃう!」
「溶けてしまえ」
「ごめんなさいっ」

  カカシの肩と足が、涼しい陣地からはみ出ている。
 美味しいラムネ水みたいな声のカカシは、体温だって、よく冷え
た瓶みたいに冷たい。どこかひんやりとしてる。溶けはすまいが、
日に当たれば温(ぬる)まりはするのだろう。
  
  足に巻いた白いバンテージが光を吸収して、更に白さを増す。
  肩のべストも、日光の匂いを放ち始める。
  あっと言う間だ。
  陰の中では、灰色をしていた髪の毛先が、光に溶けて白く変わり、
熱を帯びて眩しくなって。


  本当に溶けるのかもしれない、と一瞬惑わされる。


  その隙を突き、大半はいまだ日陰の中の本体が「今度帰りに、か
き氷奢りますから」と懐柔の台詞を口にして、無理やり日陰の中に
帰ってきた。
  イルカの視線は、言葉を紡ぐ場所から外れて、灰色の部分に。
 一度光に溶けて、影で再び色を取り戻した毛先を触れば、熱くなっ
てる。
  ふいに。
 夏休み、外で遊んで帰ったときの、子供の自分の頭を思い出した。
  お日様に灼かれた髪の熱を、カカシの髪の手触りで思い出した。
  既に遠くなったものが、この手に戻ってきた、不思議な感覚を。


「…熱いですね」
「夏だからねえ」
「いや、そうじゃなくて。髪の、頭が」
「夏だからねえ」


  ――アツイよね。
 カカシの返事は変わらなくて、イルカは訴えるのを諦めた。
  手のひらに残る何かは、カカシのものじゃない。自分のものだか
ら。傍らで、ゴクリとラムネを飲むと隆起する白い喉なんてものに
目を奪われるイルカだって、とうに子供ではない。
  カカシは、瓶の口で、遠い空を示した。


「あそこにねえ、上昇気流があるんです」
「上忍て目がいいんですね」
「そんなの見える筈ないでしょ? 積乱雲の下だからですよ」
「あー、さっきの続きですか」
「そうです。夏のギラギラした日差しで部分的に暖められた地面に、
強い上昇気流が発生したときに、あの暑っ苦しい雲が見られる訳で」
「入、道、雲」
「……先生の生徒達は、きっと皆口を揃えてそう言うんでしょうね。
ま、ともかく、だから明日も晴れます」


 身体の熱は、寄り添うひとと変わらなくなりつつある。
  お互いに。
  ラムネだって、もう幾分温い。
  こんなところで何がしたいんだろう。いや、これは単なる休憩以
外のなにものでもないのだけれど。
  おとなしく、枯れた話題に興じてるのは、ここに大人が揃ってい
るからだ。二人とも大人だ。見掛けだけは充分育ってる。中身も。
 強い力で雁字搦めにしたがる一方は、少し問題ありだが。
  こうして、だらしなく、だらだら寛げるようになっただけでも進
歩だ。幼い時分から、常に、駆けて駆けて。任務で。
  ラムネって何ですか。ソーダと違うんですか。
  そんなことを平然というひとだし。このひと。
  暑さにやられて、イルカの思考もとめどない。
 ゆっくりとイルカが残りのラムネを飲んでいると。


「オレね、9月15日に生まれたんです」


  夏って言うと、思い出すいやな日付ですよ。
 カカシはぽつりと言った。
  約一月先の話だ。夏の、残暑の厳しい時分の話だ。イルカは知っ
ていたけれど、知らなかったように振る舞った。祝えと、いつ言い
出すのか期待もあって。

「そうですか。おめでとうございます」
「めでたくなんかないですよ」
 カカシは、ふっと表情を消して、唇を動かした。
「どこが、めでたいの?」
「え」
「どこが?」

 ――それは、もうこの年になると誕生日なんて祝うものでもない
とか、嬉しくもないとか。そういったありふれた感情の動きではな
くて。
  イルカの。
  あなたが生まれた日だから、祝福したい気持ちなのだ、とか。
  当たり前の理由は、何の説得力も。なくて。


「イルカ先生は5月26日生まれですね」
「ああ、はい」
「だったら、どうしてオレの誕生日が9月でメデタイと思うかな。
こんな酷い話はないですねって、泣いてくれなくちゃ」


 ――ダメでしょ?

  

*



 その夜、カカシはいつものように、イルカの部屋を訪れ、いつも
のように食事をし、いつものように風呂に入り、いつものようにイ
ルカを抱いて。――いつものように、寝しなに胸に抱え込んだもの
をイルカに分け与えた。

  イルカ先生。イルカ先生。イルカの腕を枕にして、顔を摺り寄せ、
カカシはイルカをなじった。
 9月に生まれたことが、何でめでたいの。
  ――あんたは、まだ生まれてないじゃない。


 知らなかったの?


「オレが、この世界に生まれ落ちてどんなに悲しかったか。悲しく
て悲しくて、赤児のオレは毎日泣いて暮らしていたのに」


  声は夜のしじまに溶け込んで、分解される。心の澱(おり)は、イ
ルカに吸収される。

  昼間、おとなの顔で「積乱雲」と笑ったカカシは、夜になると、
まるで違う生き物になる。子供がいる。閉じ込められて、じっと隠
れて、育ち損なった子供が顔をだす。
  イルカに頭を撫でてもらいたいと。
  与えられるべきときに、与えられなかった、手も声も。全部。
  頂戴、と。
  イルカは、寝ぐずりの一種だと思うことにしている。


「赤ん坊は、みな泣くもんですよ」
「違う。違うよ。オレは違う。びっくりして泣いたんだ。悲しくて、
不安で、胸が張り裂けちゃうって泣いたんだ」
「どうして?」
「――だって、どこにも居なかった。オレが産み落とされた世界の
何処にも、イルカ先生は居なかったじゃない」


  枕辺に、隣の部屋に、畦道の灯の陰に、星明かりの下に、遠い昔
のカカシの姿が現れる。ぼんやりと、揺らいでは消える。取り残さ
れた思い出として。
  夜が分解しきれなかった残像が、イルカに見せつけられる。

 ――赤児のカカシ。小さな手足。いとおしい、無力な手足だ。

  どこに生まれたか知ってる。何をなすべきかも知ってる。
  そのために、踏みしめ、握らされるモノも。
 こんな小さな手じゃ死ぬだけ。
  行くべき場所は、既に決まっているのに。

 泣き続ける赤ん坊は、それを嘆いたのでも、これから先に負うて
いく辛い枷が恐ろしかったのでもない。独りぼっちにさせられたと
いう現実が、悲しかったのだと。

  戯言だと、聞き流せないチカラは、声に潜む本物の嘆きがもたら
すものだった

  小さなカカシ。
 全身を真っ赤に染めあげて、わんわん泣いてる。
  乳の匂い。おくるみ。何もかもが慈愛に包まれているのに、全身
で訴えかけて。


  ――いない。なんでいないの。オレだけ何で先に生まれたの。オ
レだけのひとが、どこにもいないよ。



  ならば、

 世界は、始まりから、ただ絶望に覆われた暗い場所だ。

  その先にあるのは、命のやり取りをする戦場だ。






 イルカは左目の傷に触れて訊いた。
「毎日、泣いたんですか?」
「泣いたよ。泣くに決まってるでしょ。オレのただ一人のひとが、
何処にもいないなんて。そんな怖い場所で生きていかなきゃならな
いなんて。途方にくれたんだ。とても小さかったから。泣くことし
かできなかった。酷いよ、イルカ先生。酷い」
「……」
「ずっと待ってた。待ってたのに。オレを放って、女のひとの胎で、
うっとり楽しそうな夢ばかり見てたんでしょう。ナルトを火影に、
教え子が上忍にって」
「うーん。見てた、のかなあ…」
「イルカ先生は薄情です…っ。早く逢いにきて。側にきてって、泣
きじゃくってたオレを無視して、ずっと微睡んでたんでしょう」
「そう、かな?」

  胎児の記憶は、さすがにないけれど。
 カカシの云う通りだとしたら。
 イルカだって、カカシが自分を待ってくれてると知っていたに違
いない。


  想像するのは、容易だった。


 ――呼ばれてるなあ。そう羊水の中で、しつこい声に、薄目を開
く、自分。
  まぶたを開くのはとても困難だ。大変だ。でも、呼ぶから。
  そばに行ってあげたいけど、自分の体はまだとても小さくて、臍
の緒で繋がれている。何処にも行けないよう、そこに縫い留められ
ている。まだ時期ではないからだ。

  もっと大きくなって、そうしたら。

  そうしたら、絶対逢いにゆくから。
 それまでそこでおとなしく、待っていてくれないかな。
  あんまり泣かないで。安眠妨害だ。
 いま、とても良い夢を、見てたのに。


  ――あの子がね、火影になるんだ。とても大事な子。他の教え子
たちも、つつがなく成長し、それぞれの夢に向かって邁進する。そ
の背を見送る満足げに微笑む自分。
  それだけでも幸せなのに。オレの姿がない、それっぽっちのこと
が不安で呼び続けるひとまでいる。これから行く場所には、そんな
ひとが、自分を待ってるらしい。


  嬉しい。
  ――でも。
  このしつこさは、きっと我が儘な性格だ。
  これだけ呼ばれるのだから、自分の相手はこのひとなんだろう。
  何だか、とっても大変そうだ。

  出逢ったら、どうせ離してくれないんでしょう?
  だったら、今だけ、のんびりさせて欲しい。ちょっとだけ。あと
ちょっとだけだから。
  これから先、オレの全部を独占するんでしょ。なら、ほんの少し
だけ、今だけは。胎児の時間くらいは、惰眠を貪らせてくださいよ。
あとは、あとは――全部あげるから。


 
 
  でも。
 どうしていないんだと、悲壮な泣き声は、やむ気配はない。
  イナイナンテヒドイ。
 (いないなんて酷い)
 オレヲヒトリデホウッテオクナンテ、ヒドイ。
 (オレをひとりで放っておくなんて酷い)
  来て。早くきて。ねえ、さみしいよ。悲しいよ―――…




  ……ああ、うるさいなあ。何で、そんなに泣くんですか。
  いい加減、泣きやんでくださいよ。毎日毎日。泣きっぱなしじゃ
ないですか。きいてられない。
  オレがいないことが、そんなにあんたにとって重大な問題なんで
すか? そんなに? そんなにオレがいなきゃダメなんですか?

 
  ………………
  ………………
  ………………
 ………………わかりました。

  ああ解ったから、もう泣くな。
  泣くんじゃない。
  なるたけ急いで、あんたの元へ行くから。
  予定より早く、生まれてあげますから。
  ったく、生まれる前から、振り回すような相手だなんて。
  ……迷惑な話だなあ。




 ――本当に想像は容易過ぎて。
  滑稽で。どこか可愛らしくて。
  笑いが、イルカの喉をふるわせる。
 
  覚えていないだけで、これは事実だったんじゃないかと、納得で
きるほど、脳裏に浮かぶ鮮やかな空想。

  まだ原始的なフォルムに近い、胎児のイルカ。頭部ばかりが大き
く、手足はトカゲのようで。そんなカラダで、懸命に瞼を押し上げ
ては、カカシを宥めている。泣くな泣くなと。げんなりしている苦
労性な自分。



 これら全てが、
 カカシのなかに棲む子供の、
 淋しさから生じた空想なのだろうか。
  もし、本当に覚えていたんだとしたら?



  ――イルカの出産予定日は、本当は6月中旬だった。
 そう母に聞いたことがある。
  イルカは慌て、どうしてか急いで生まれてきた。
  そこは事実なのだ。
 カカシの寝ぐずりは、その理由をきちんと解明してみせた。
  イルカが予定を早めて生まれ落ちた訳。
  それは、ひとりにした、と悲しんで泣く誰かに、安眠妨害だと怒っ
てやるためにだ。
 


「あのね、カカシ先生。これでも、オレ、急いだんですよ?」
「…本当?」
「覚えてないけど、うん。きっと頑張りました」



 イルカは、すごく頑張って、確かにずっと早く生まれたのだ。
  カカシの待つ世界に。
  

  早くきて、とねだる声に負けて。







★ブラウザを閉じてお戻りください inserted by FC2 system