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* どうかしあわせにと願い、すこやかであれと祈る声を             

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「イルカ」




 その名前に「ああ、まただ」とミノリは水まきの手を止めた。

 同じ火の国でも、木の葉の里は随分暖かく乾燥した土地柄だった
ので、ミノリは嫁いできて以来、春も夏も店の前の通りに水を撒く
。残暑も過ぎ、虫の声が聞こえはじめた今時分も水を撒く。もとも
と涼むためというより、埃っぽさが喉を刺激するので地面を湿らせ
て土埃を立たせないに撒いているのだった。
 山の湿った土しか知らないミノリには、木の葉のからりとした風
土は、気持ちはよいと思うがなかなか馴染まない。
 イルカ、と嗄れ声が再び耳を打つ。


「――そうか、なくした櫛が見つかったか」
「きっとイルカ先生が拾って届けてくれたのねぇ」
「あのひとは、親切なひとだそうだからな」


 ミノリの動きを止めた手に握られた柄杓から、水滴がぽたりぱた
りと落ちるのと同じテンポで歩く老夫婦。彼らは長吉の店の前をそ
んな会話をしながら、通り過ぎて行った。

 目抜き通りから外れた場所にある長吉の干物屋は、買い物客で賑
わう商店街よりは里の入り口よりで、人どおりはまばらだ。
 大門への抜け道だからそちらへ行く者か、まばらに並ぶ店々に用
事のある客しか通らない。
 それでも日に何度も、こんな風に同じ名前が聞こえてくる。

 去年の秋にこの里にきて以来、もうすぐ一年になるが、その間、
何度その名前を耳にしただろう。


 イルカ。
 もしくはイルカ先生。


 子供から年寄りまで、老若男女問わず、皆が口にするその名前。
たいていは先生と敬称がついている事が多い。時折アカデミー、と
いう言葉もセットになってくるところから、どうやら「イルカ」は
アカデミーの教師らしいとわかった。アカデミーは忍びの子供を育
てるところだ。里の根幹を担う重要な機関であることはこの一年で
よく理解していた。そこで働く者が忍びであることも。「イルカ」
は忍びで、先生で、中忍という階級で、男性。
 ―――耳にする噂話を寄せ集めるとそうなった。

 
 噂話はたいてい良い話だ。イルカはお人よしなのか、あちこちで
常時誰かを助けている。東で倒れたひとを抱き起こし、数分後には
西で盗っ人を捕まえ、といった具合にだ。聞こえてくる話をまとめ
るとそうなってしまう。何かの間違いも混ざっているのだと思うが、
ひとがいいのはきっと本当だろう。そして皆に好かれている。だっ
て、こんなに噂にのぼるのだから。
 イルカは話の上では、まったく不自然なほどに誰かの手助けをし
て回っていた。イルカの噂を聞いているとまるで一日中、しかもた
えず里の中を走り回っているように、ミノリには思えた。とにかく
目撃談が多い不思議な男だ。


 イルカの風貌も話だけだが知っている。髪は黒く、瞳も黒。顔の
真ん中には一文字の傷があるらしい。それから髪を高い位置でくく
っている。
 そんな目立つ特徴の男であれば、一目みればきっとミノリにもわ
かると思う。
 イルカの名前を認識して以来ミノリは漠然と、噂に上るその男に
自分も出会うことがあるだろうと踏んでいたが、何故だか一向にそ
の機会がない。
 ニアミスというのか、そんな感じはあるけれど(この里にきてま
ったく色んな言葉を覚えたと思う)

 買い出しで木の葉茶通りを歩けば、さっきイルカがサンマをもっ
て行っただの、つりを忘れただの、と声が聞こえてくる。今日のイ
ルカの夕餉はサンマか、とこれまたどうでもいい情報だけもらい、
肩をすくめたくなる。同じ里の中でも、これだけ人がいるとなかな
か当人には出会わないものらしい。


 ミノリにとって「イルカ」は、ささやかな娯楽だった。別に浮つ
いた気持ちも抱いてない。ミノリのいいひとは長吉だけ。
 単なる娯楽なのだ。
 近所の住人とは仲良くなったものの、まだ友達らしい友達もいな
いなか、日に何度も聞こえてくる「イルカ」の名前はミノリの本当
にちょっとした娯楽。
 会ったこともないくせに不思議と、とてもよく知っているひとの
ような気がする。そんな感覚を勝手に楽しんでいるだけだ。
 それは、いつか見た「テレビドラマ」で起こっていたことと一緒
だ。同じことだとミノリは考えている。


 ―――木の葉の里にきて初めて見た「テレビ」。それであってい
た「ドラマ」のなかで、主人公が「電話」を故郷の友達に掛けるシ
ーンがあった。
 そして知る。遠く離れたふるさとの幼なじみたちが、知らないあ
いだに結婚していたり、子供が生まれていたりしたこと。その子供
の顔かたちの報告を受けながら、主人公はその子供に心底親しみを
覚えていた。あったこともない、友達の見知らぬ旦那にもだ。そう
してそんなやりとりを重ねて、実際に彼らに会い、「いつも話を聞
いていたから初めて会う気がしないわ」などと言っていた。

 イルカのことは、おそらくそういう気持ちなのだ。
 会えば、仲良くできそうな気がしてる。きっとできる。だってこ
んなにもイルカの話ばかりきいてきたのだから。
 イルカはまだ会ったことのないひとだけれど、すっかり遠くの知
人のような気持ちでいる。


 イルカの名字は「うみの」。
 熱血漢で、嘘のないまっすぐな人柄らしい。でもおっちょこちょ
いなのか、あちこちで、落とし物をしてたり、忘れ物をしていたり。
かと思えば細々人助けをして頼れるひとであったり。あと、笑顔が
とてもやさしい、という。
 やっぱり本人を見てみたいな、とミノリは真剣に願うのだが、勤
め先のアカデミーにまで押しかけるほどの熱意はもちろんない。
 一度くらいばったり出くわしてみたい。そして、そのやさしいと
いう笑い顔をみてみたいな、とは考えるのだけれど。




「ねえ、あんたイルカ先生見なかった?」
 



 ふいに掛けられた声に、ミノリは驚いた。
 だって「イルカ」だ。イルカのことを考えているこのタイミング
でそんな声を掛けられるとは。

 まるで考えを読まれでもした心地に仰天したのもあるが、ミノリ
が息を飲んだのはあまりに異常なことが起きたせいだった。柄杓を
思わず取り落とす。
 ―――さっきまでだれもいなかったのに、少しくたびれた風体の
忍びの男がミノリのすぐ間近に立っていた。男は満身創痍の一歩手
前のくたびれ方だった。
 忍び足、という言葉をどきどきしながら思い出した。
 そうだここは忍びの里だった。これくらいは普通なのかもしれな
い。忍びには特殊な技能がたくさんある。一瞬で消えたり現れたり
もできるというし。

 
 そこに立っていた男は忍びだった。忍び特有の草色のベストを身
につけているから忍びだと一目で分かる。だけども、それ以外の特
徴は異様としかいいようがなかった。
 傷や火傷のあるいかにも荒事に長けていそうな風体なら最近は見
慣れていたが、こんな忍びは初めて見た。
 男は覆面をしていたのだ。木の葉の忍びのしるしの額当ても何故
か斜めに巻いている。顔で露出しているのは僅かに目だけだ。それ
は煙るような蒼い瞳だった。
 黒っぽい覆面に、声に合わせてしわがよった。


「ね、知らない? ここ通らなかった?」
「いるか、先生が・・・・・・?」
「そう。イルカ先生。探してるんだけど」


 あやしい風体の忍びの、矢継ぎ早な問いかけの内容に、ミノリは
戸惑いを覚えて返事に困る
 どうなの? という布越しのくぐもった声にミノリはまごついた。
 知らない、と一言言えばいいのに、その一言が動揺でなかなか出
てこない。
 けれども、いるか、という耳に馴染んだ名前の響きのせいか、目
の前の男に対する警戒心だけは多少薄らいだ。イルカを探している
男。探している、ということはこの男は「イルカ」の知り合いなの
だろうか。あの、ひとのよい男の友達だったりするのだろうか。同
じ忍び同士だし、その可能性はとても高いと思う。それにとても親
しげなニュアンスだった。そうか、このひとは実際に「イルカ」に
会ったことがあるのだ。
 それはとても羨ましい。イルカの噂を落として行く人々には感じ
なかった羨望が、その男に対してミノリの胸を占める。

 ミノリは少しだけためらってから、男に「通ってないと思うけど」
と答えた。


「でも、よくわからないわ。通ってないとは思うけど。だってわた
し、まだイルカ先生というひとにはあったことはないの」
「そうなの? あのひとここの干物が好きだって前に言ってたから、
てっきり知ってるとばかり。――そりゃあ、へんなこと聞いて悪かっ
たねぇ」 


 客商売だからお得意の顔ぐらいは知ってると思って、と男は後ろ
手に頭を掻いた。悪い人間ではなさそうだ。
 謝られて、完全に男に対する構えは消えてなくなった。

「ううん。いいこと聞いた。その、イルカ先生がうちの干物を好い
てくれてるなんて嬉しいわ。こちらこそごめんなさいね」

 うちのお得意という言葉にミノリはまたどきりとしていた。その
話は初耳だった。
 だけどもミノリの店番中に「イルカ」らしき男が訪ねてきた覚え
はない。ミノリが嫁にくる前の話なのだろうか。それとも売り歩き
をしている長吉からよく干物を買っているのかもしれない。どちら
にしろ長吉もイルカにあったことがあるのだ。それを知って胸が少
し焦げた。長吉さんずるいわ、と単純に悔しく思う。

 男はどれどれと、店に並ぶ魚の方へ目を向けた。

「イルカ先生は岩魚の干物が好きなんだよね。ここ干物おいしいよ
ね。うーん、ついでだから土産に買って帰ろうかな」
「ありがたいわ。お包みしますね」
「4匹ちょうだい」
「はぁい。――ね、お土産って、どこかに今から行かれるの?」
「さっき帰ってきたとこだよ? 土産はイルカ先生に。半年ばかり、
外回りでねー」

 大きな魚を選んでやりながら何げなく問いかけて、返ってきた返
事にミノリは頭をひねる。今の会話はあきらかに意志の疎通がはか
れてない。
 こんなにくたびれた格好で、いかにも長旅帰りっぽい様子をして
いるので旅にでるのは妙だとミノリも考えたのだけれど、ミノリは
イルカと土産を結び付けて考えられなかったのだ。
 だって長吉の干物は同じ里の者への土産にしては、ありきたり過
ぎてぱっとしない。
 でも、土産はイルカあてなんだ。やっぱりイルカと親しいのか。
それはともかく、外回りとはなんだろう。まだ忍びの里の実態に明
るくないので想像だが、忍びは里から出て行って色んな任務をこな
して外貨を稼ぐ一種の出稼ぎ労働者みたいだし、この男もそんな感
じで半年里を空けていたということだろうか。
 それで今からイルカの元を訪ねようとしている?
 長旅の土産なら、その出向いた先で買うものだろうに。
(遊びで行くんじゃないから買えない決まりでもあるのかしら)


「ねえお客さん。お土産って、里の外の珍しいもの方が喜ばれるん
じゃありません?」
「あー、どうだろうね。あのひと貧乏性だから」
「は?」
「珍しいものって高いでしょ」
「ええ」
「贈り物って気持ちの問題だから、値段なんて関係ないのにねぇ。
里の受付やってるひとだからかな。イルカ先生倹約精神身についち
ゃってるのよ」
「へえ」
「嬉しいけど、高いっ! ――て、ひいちゃうひとなんだよねー」
「まあ」


 そんな情けない面を曝す話をしつつも、男の顔が覆面越しにも嬉
しげに緩んでいるのがわかる。イルカのことがとても好きだからこ
その軽口だとよくわかる。 
 男の話に、ミノリの相槌が弾んだ。顔に鼻傷のある男が、焦る様
子がミノリの頭にまざまざと浮かんでくる。
 お互いがイルカの友人で、共通の知り合いの噂話に花を咲かせて
いるような感じだった。何だか嬉しくなる。ミノリの方は本当は知
り合いですらないのだけれど。


「わたしこの里にきてから、イルカ先生のお話よく聞きますよ」
「いい話ばっかりでしょ?」
「ええ殆どが。さっきあっちに行ったよなんて、そんなことまで耳
にするし、人気者ねイルカ先生って」 
「そうだね。人気者なんだよね。どこ行ったか知らない?って誰か
にきくとね、どこそこに行くって言ってましたよーって、誰かが必
ず教えてくれるの」


 そう言って、にこりと男は笑った。
 ミノリもそれに微笑み返して、包んだ魚を代金と引き換えに男に
手渡した。

「イルカ先生に会ったら必ず、今度ぜひお店のほうにいらしてくだ
さいって伝えくださいね」

 わたしも、お得意様にご挨拶がしたいわ、と身を乗り出すと、男
は先程のにこやかさがかき消えて、どこか困った風情で黙り込んだ。
 何かまずいことを言ったかと、ミノリはあせって手を胸の前で振
った。

「あ、無理にじゃないですよ。だめですか?」 
「んー、だめじゃあないんだけど。そうだね、今度こそ会えたら、
伝えておくよ」
「今度こそ?」
 今から会いに行くのではないのか? 
「今度こそ」 

 質問におうむ返しで言葉を返す男は、だって探してるんだもん、
と奇妙なことを言う。確かに探している風ではあったが、同じ里の
中にいる知り合いに、いつ会えるかわからないでもあるまい。土産
が痛まぬうちに会えるに決まっているのに。


「まるで、イルカ先生が滅多に会えないひとみたい」


 だって行き先は必ず誰かが教えてくれるなら、捕まえやすいはず
なのに、とミノリが笑うと男は、また困ったように、目を細めて笑
った。 


「でも、実際、ここ4年は会えてないから」
「え!?」
「恋人なのに、変だよねぇ」
 
 ―――爆弾発言だった。 








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