戦場で

戦場で


森に潜んで、闇夜を縫うように駆け抜けた。
戦況は一進一退だった。
戦場を渡る日々は、色々なものを忍びから削ぎ落とし、里を遠くにしていた。


例えば子を持つ忍の親がいる。他を排除する業の忍にとて愛しむ妻子、家族はある。
それが経験を積んだ上忍であろうとも、若すぎる敵を手に掛ければ、まるでわが子を殺めたような虚脱感に足を掬われることだってある。
弱く揺らいだ心は死を招きやすい。戦場ではその揺らぎは死に直結してしまう。
そんなとき、忍は自分の心を一時殺す。妻以外の、誰でもいい。裏切りでも構わない。所業を知られて軽蔑の眼差しで見られる恐怖より、それでもいいから生きて帰りたい。
だから、ただ今かたわらにいる、その手が届く同胞の慰めを受けて、死の影から逃げ延びようと没頭する。夜の帳の下、生存本能を最も露わにした行為に耽ることは、生を抱き寄せることでもある。

戦場の忍にとっては、無事に生きて戻るために必要な行為だ。
殺し合う、とは命以外の犠牲を必要とする。



そんな中、カカシはまるで世界に独りぼっちみたいな顔をして、ぼんやりと星を眺めていた。
長引く戦は半年を越え、三月を越えた頃に支援部隊として合流した己と違い、最初から投入されていたカカシは、その間、戦場を駆け抜けていただけの汚れがアスマの目にもあきらかだった。
汚れは、身奇麗にしても落ちない、匂いとも呼べる、「気配」だ。

アスマの目には、その様子が総じて、まるで幽鬼のようにも見えた。
知っているが知らない人間に見える。
男の立ち姿が、すべてが終わり何も取り戻せない境遇に陥って、その場を動けずにいる無力な幻影のようで。
アスマはカカシに同情に近い念を覚えた。こんな様子では、忍びとしては最高でも、人の境遇としては最悪にしか思えなかった。

里でも珍しいカカシの白銀の髪は、星の光の元では輝きを取り戻せず、闇夜に溶けて、今はぼんやりとしかわからないかった。整った鼻梁も、薄い唇も、口布にしまわれている。
それが、ただでさえ短い休息時間に、まだ眠らずにいる男の気配を増々薄いものにしている。


痛みを麻痺させる里の医療班支給の紙巻煙草をくわえ、吐き出す煙が届く位置までアスマが歩み寄ると、カカシの顔が、ゆっくりと星から同胞へと向きを変えた。
すこし笑ったようだった。


世界に独り。そんな顔のまま。


けれど、アスマは、カカシがひとりでなかったことを知っている。
つい先刻まで、自分の天幕の中で、特定のくノ一と情を交わしていたのも知っている。
誘いを掛けてきたその細い指を自分の指と絡み合わせ、唇を柔らかな肉に這わせ、女の体に押し入ったまま幾度も果て、お互いが満足するまで腰を揺さぶっていたであろうことを知っている。
そうして女の内股に吐き出し続けた、自分の精になんの感慨もなく目を向けたであろうことも。

そして、その心だけが、今も此処にないことを知っている。



「あのひと、今頃はまだ布団のなかだねぇ」

同じ夜を共有できない相手のことを、カカシは遠い地でただ考え続けているのだ。
あのひと、という響きだけで、相手を特定し限定させるほどに。
置いてきた心は、カカシの肉体から離れ、カカシの気配を薄くさせたままだった。
忍びとして最高で、人としては最低だ。

「そら、寝てるだろうな。まだ朝の4時だぞ」

アスマは、懐の懐中時計に指を差し込み、結局取り出さぬまま、見当で答えた。
時間は先程確認したばかりで、きっとそんなに進んではいない。今が4時ちょうどでなくとも、それより前でも。数分後には間違いなく4時なのだ。
指先に触れた時計の秒針を刻む振動だけは、流れていく時を教えていた。

正確に、容赦なく平等に。
前に進むばかりの時間は、そこにひとを取り残したまま置いて行く場合もあれば、誰かを遠くへ連れ去ることもある。

「あのひと、まだ、ひとりで寝てるのかな・・・」

そのような疑念を、ぽつりとカカシは呟いた。
疑念は疑念で、それ以外の感情の色はとりあえず見当たらないのがアスマには逆に滑稽だった。
特に嫉妬も見せずにそれを口にするカカシこそが、ひとりで寝てはいなかったくせにと、カカシをよく知らない他人なら呆れてみせただろう。


けれど、その場にいるアスマはカカシをどういう人間か知っていた。
カカシは身体の浮気は簡単にできるのに、心の浮気はできない、いびつで哀れな人間なのだ。


どうしてそれが哀れかといえば。
カカシの恋着する相手は、その反対だからだ。


恋人がある身で、だれかと身体を重ねることなど、絶対にしない。―――それがカカシの恋した人間だった。
貞節を重んじる。当然の事として相手にもそれを求める。裏切りはなし。
だからカカシと反対とは言い過ぎだろう。反対だから心の浮気ならするようにも聞こえてしまう。
そうではなくてたぶん、極真っ当なだけだ。カカシから心が離れれば、他の誰かに揺れることもある。ただ、それだけ。―――普通の人間で、だから余計にカカシの気持ちを搦め捕った。

けれど、常に誰かを深く愛していたいひとでもあるに違いなかった。アスマがカカシから聞かされたイルカという教師は、そういう人間なのだという。
深く愛した相手が、いつ帰れるとも分からぬ任務に赴き日々が過ぎ去る。そうしてぱっかりと大きく空いた不在を、べつのだれかで埋めたいと願う可能性は、ないと言えない。カカシはそんな風にイルカを解釈している。


カカシが戻るその日まで、イルカはカカシを待つだろう。
身体は、カカシが最後に抱いたままで。
けれど、その心はそこにあるかはわからない。
べつの誰かを既に見つけ、―――今だって苦しんでいるかもしれない。

そんな風に流れた時間の分だけ、カカシとは違う場所にイルカが進んで、もう取り戻せないこともありえるのだと思っている。
進んでいく時間からこんな場所に取りこぼされたままのカカシを置いて。



確かに一理あるとは思うが、アスマから見れば、随分悲観的な、阿呆らしい想像にも思える。
カカシは、イルカの名を幾度か呼び、ふと気づいたように、のろく言った。

「おなか出して寝てないといいけど。寝相、悪いから」
「中忍に変な心配だな」
「寒いの苦手なくせに、ひとりだとすぐ毛布はいじゃうんだよ」

人形のように完璧な造作を覆っている布の下で、カカシのイルカを思い描く声は、常より格段に柔らかく、けれどその柔らかさはどこにも届かぬやるせないものだ。相手はこの手の届かない遠い空の下だ。

カカシがその傍らにあれば、風邪などひかさぬよう、共に毛布にくるまってやれるのにと叶わないことを嘆いているが。
現実は、カカシが共寝する相手は名も知らぬくノ一で、天幕に戻れば、先程の続きが待っている。男の身体の火照りは簡単に蘇り、行為を再開するだろう。イルカの身を案じたことなど一時忘れて。




その届かぬ声を律義に拾ってやるアスマは、カカシを愚かで哀れだと思う。
自分が、そんな風に簡単にイルカを裏切るから。裏切れてしまえるから、カカシはイルカを信じることができないのだ。
自分もイルカを裏切らずに過ごせたなら、イルカも同じだと、変わらずにいてくれると信じる縁(よすが)にでき、心の安寧を得られるだろうに。
カカシが裏切りさえしなければ、イルカはさみしさなど耐えるだろうに。

情報収集能力に長けた者の集う里で、届かぬ風の噂など在りはしないのに。
―――人目を惹き過ぎる上忍の、此処での女の扱いは里に必ず届いている。
毎晩のようにカカシの天幕で夜を過ごしている、おそらく体の相性の良い、くノ一が居ることも。

じわじわと自ら招き寄せつつある破滅に、カカシは薄々気づきながら、自分を変えられない。


裏切った負い目から、カカシがイルカの正しい姿を見失っているようにしかアスマには見えなかった。
そして裏切らずにいられない、カカシの忍びとしてのあり方も哀れだと思った。
女の身を抱くのは、生き延びようとする本能の現れ、生への執着だ。
生き延びて里に戻ろうとするから、イルカのもとへ帰りたい一心で、戦場のカカシは平気で女に手を延ばす。
ちっぽけなその心だけは、イルカを裏切らずにいるまま。
身体に重きを置くイルカとは相いれない恋をしたまま。


「おやすみ、イルカ先生」


そう今日をしめくくる呟きだけ会話に飽きたように残し、女の待つ寝床にカカシは踵を返し戻っていく。―――やがて闇と同化して見えなくなった。






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