痛い、痛い


.





 二次会が三次会になる頃には、元の面子は半分以下に減り、どこ
かの集まりと何故か合流して、何の飲み会だか解らなくなっていた。
 任地の替わる同僚の壮行会だったはずなのに。何だか別の親睦会
みたいになっている。
  合流したのは結婚祝いの帰りという職員やくノ一たちで、イルカ
は知らない顔ばかりだが、悪い酒ではなく、楽しかった。面子の一
部が知り合いなら誰とでも飲める。大人になって、そういういい加
減さというものを知った。
  
 場所は、イルカは初めてな居酒屋に移った。
  飲みたい酒があるのだと、誰かが叫んだせいかもしれない。置い
てある店は限られている。
  大人数のため案内されたのは奥の座敷だ。長方形の大きな卓を四
つ繋げて、人数分の座布団が敷いてある。その座布団が衛生的とい
う意味でとてもきれいで、イルカはまずそれが嬉しくなった。
  いくら料理が美味くても、置いてある座布団が汚い店は、商売人
としての意識の低さがでてる。そう最近、言ってたひとがいた。ア
ルコールのまわった頭でそれを思い出していた。

  いつもなら入り口に近い席にイルカは座る。酔っ払いたちの代わ
りに注文の品を受け取ったり色々世話を焼くためだ。別に自分がし
なくてはならない決まりもないが、性格的にひとを放って自分だけ
楽しめないのである。けれど、合流した女性の職員が入り口側に固
まって陣取ったため、イルカは珍しく奥のほうに腰をおろした。
 
 面子の誰かが執心の、珍しい酒というのに興味はあった。
 迷ったけれど。手を出さない。酒は好きだがあまり強くないのだ。
 頼んだイカの刺し身をつつき(新鮮で美味い)、イルカはビールを
遅いぺースで飲んでいた。それでも三軒めともなれば、かなり酔い
も回ってる。  
 両隣の同僚との会話での受け答えが遅くなり、頭も少しぼーっと
していた。これ以上過ごすのは拙いと経験上知っていたから、今度
は熱いおしぼりと、冷たいウーロン茶を頼んだ。イルカの酒癖は悪
くないらしいが限界を越えると記憶が途切れる。前夜の記憶がない
のに、朝自分の布団の中で目覚めるのは、やはりちょっと恐い。
 注文の品はすぐに運ばれてきた。担当についた仲居さんみたいな
格好の店員の女の子は、はきはきしていて、気持ちがいい。従業員
の教育の行き届いた店だと感じた。あのひとの言ったこと当たって
るなあと、また思い出し笑いをしていると、隣のやつに肘でつつか
れた。
「イルカの番だぞ。で、どうなんだ?」
「あ? …えっ。なにが?」
 座った場所の近い十人くらいの男女がこちらをみていて、イルカ
は目を白黒させた。遠い席の女性陣はまた別の話題に興じていたが。
 いつの間にか。
 最近の近況の報告会というか――恋愛事情の暴露会に突入してい
たらしい。誰とかと付き合ってる。実は誰々に片思い中だ。最近ア
イツと別れてさあ。――そんな話。


  アカデミーの者はつい先日まで繁忙期だった。当然飲み会なども
ろくになく、就業中も悠長に無駄口なんて叩けなかった。なので、
この辺でひとつ情報交換でもということらしい。なかにフリーの女
の子がいたら、この話題を切っ掛けにという意図もあるのか。
  ――いつもだったら――イルカの返事は決まってる。
  恋人はできてない。誰も、そんなひといない。
 そういう淋しい返事をするしかない。

 でも、今日は違う。

  イルカは、緩む頬を必死に引き締めようとした。
  だって。そりゃあ緩む。
  付き合ってるひといるよ。――そう言えるから。
 もう嬉しくて仕方がない。初めてだ。そんなことが言えるのは。
  友達が、仲間が、同僚が。皆が恋人と切れたりくっついたりを繰
り返しているのに、イルカだけがずっとひとりぼっちだった。
  今までずっとそうだったから。すごく嬉しいと思った。


  イルカは、化け狐の災禍で両親を亡くしていた。
  それから精神的にはずっと独りきりで過ごしてきた。身内もなく
家族もなく。火影を始めとする里の大人達に世話を受け不自由は何
もなかったけれど、その保護のなかには当然ながら「イルカだけへ
の何か」はどこにもない。他の子供と公平さをはかることは、正し
いことだが、十把一からげと何処が違うのか、イルカには説明でき
ない。仕方がないと分かっていてもだ。恨めしく思うでもなく、た
だそれがずっと、とても淋しかった。
  短い期間でも確かに注がれた親の愛情をイルカが受け取っていた
から、そんなには歪まずに育つことはできたけれど。

  それでも、イルカはひとの好悪の種類や有無に、ひどく神経質な
ところがある。好かれたい。必要とされたい。心の奥底に燻るその
望みのせいで、イルカは気配り上手だけれど、何だかそればかりが
先にたつ。我が儘が言えないし、人の和を乱すほど強い言動をとる
ことにも臆病だ。教え子のためなら言える。でも自分のためにはで
きない。
  理由は朧げに理解していた。
  自信がない。嫌われることが怖くて、躊躇してしまう。
  特別に思われたい願望に反して、公平に平等に均されて育った自
分から、はみ出すのが怖い。
 体験が足枷となり、自分で自分を押し殺してしまうところがある。
 そういうのは面白みのない人間だ。自分でもそう思う。
  そんなやつが、人から求められるわけがない。嫌われることは回
避できても特別には好かれない。
  解っていても自分をなかなか変えられなかった。怖い。怖いから。
そんなふうに、半ば諦めるようにイルカはずっと、ひとりだった。

 子供の頃は、大人になれば自分も大事なひとを見つけ、家族がで
きるのだと無心に信じていた。
 ――長じるにつれ。そこまで明確な形でなくても、誰かを好きに
なり、そのひとから愛されるという機会が自分にも訪れるのだと考
えるようになった。
  誰かを見つける。そのひとだけと思えるひとを選ぶ。
  けれど今まで一度として、イルカがその見つけた相手から、選び
返されることはなかった。
  恋をする。でも。あなたはいいひとだけど。決まり文句のように、
常にそう拒絶された。いつもそう言って振られる。誰の特別にもな
れたためしがない。
 イルカの好きになった人にとって、イルカは特別には見れない人
間だった。そこにいるのに。何かに埋もれていて目には止まらず、
告白を受けて居たことを知る。だからごめんなさいねと言われる。
 いいひとだという以外の要素が見当たらないから。そんな対象に
は考えられない。――それはそうだ。イルカはその枠から飛び出し
て人に対した事がない。常に自分を隠すようにしか生きてこなかっ
た。
  そんなイルカを先に誰かが発見してくれることもある筈がない。
  自業自得だった。八方塞がりは臆病のせい。
  いつまでも、ひとりぼっちでいるのかなあ、とこの頃では本当に
諦めていた。


 それが、そんなイルカに――とうとう、お付き合いしてくれるひ
とが現れた。信じられないが事実だ。
  教え子を通じて知り合った、上忍師。はたけカカシ。
  普通なら縁遠いその名の通った上忍。
  しかも付き合いたいと言ってきたのはカカシの方だった。

  何度か立ち話をして、何回か飲みに行って、そしたら言われた。
イルカ先生、オレと付き合ってくださいよ。直前まで話してたこと
は、昼に何を食べたかだった。カカシ先生、と口にしたかは定かで
はない。動転というよりも呆然。空白から誰かにぽんと背を叩かれ
たように、イルカは我に返った。そんな様子を、カカシは楽しそう
に見ている。緊張感がない。ないけど。
  ――イルカ先生、オレと付き合ってくださいよ。
  本気だろうか。撤回するならば、百回はできるくらいの間が、今
あった。カカシと目が合う。――すごく笑顔。
 イルカは、その時点ではカカシのことを何とも思ってなくて。い
いひとみたいだなあと思ったけど、そんな対象には見ていなくて。
だって相手はあのカカシだ。しかも自分がそういった対象になると
考えてみたこともなくて。相変わらず没個性のイルカをそんな風に
思えるわけないし。でも実際なってるし。なってるからカカシは告
白してきたんだろうし。だったら。だったらと、イルカは。
 ――はい、と頷いた。誰かから求められる喜びに陶然とした。初
めて与えられたそれに、目眩を覚えるほどに。

 子供を通じて。それだけだったのに。どうして、埋もれたイルカ
を見つけてくれたのだろう。何がそんな気にさせたのだろう。カカ
シはただ、いいなと思ったんですと言った。
 意味が解らない。でも嬉しい。こんな気持ちにさせてくれるひと
を嫌えるわけがない。元より嫌ではない。どちらかといえば好きな
ひとの部類だ。
  好きかもしれない。ああ、かなり好きだ。
  カカシは、承諾したイルカにとても嬉しそうに笑いかけた。片目
は額当てで隠れていたけれど、口布をさげた、薄い唇が弧を描くの
はきれいで、カカシの素顔はかなりの優男だと知った。きれいな顔。
でも、なによりイルカの返事に、優しく笑ってくれたから。それが、
イルカをドキドキとさせた。好きです。いいんですか。好きになり
ますよ。感激してる今なら、恋に落ちるのは簡単だ。


  生まれて初めての両想いだった。自分を特別だと思ってくれるひ
とができた。
  日頃から我慢する習性のあるイルカは、真面目で平凡で特筆する
べき部分がないような男だ。容貌に華やかなところもないし、目立
たないし。
  そんなイルカを、わざわざ選んでくれた。どこがよかったのかな
んて解らないけれど、とにかくカカシはイルカを選んでくれた。今
までイルカが好きになった誰もが、そこに居たのか、という目でみ
たイルカを。カカシだけが。先に見つけて、イルカがいいと言って
くれたのだ。

 だから日に日にカカシのことを好きになった。今では絶対カカシ
よりもイルカのほうが強く想ってる。
 そんな状態だから、こういう場は嬉しい。
  付き合いは言い触らすことではないが、別に隠すことでもないか
ら、ちゃんと声に出して、発表できるのは嬉しい。
  オレにも好きなひとがいるんだ。じつはその人とお付き合い始め
たんだ。そのひとっていうのがさ―――そう言えるのが嬉しくてな
らない。

  しかも、カカシは有名な忍びだ。暗部にいたこともあるのだと噂
に聞くし、上忍だし、カッコイイひとだ。きっとみんなびっくりす
るだろう。男と付き合うことは普通ではないが、忍び社会では酷い
異端でもない。ままある話だ。だが、何より相手があのカカシなの
ではきっと驚愕される。絶対に驚くだろうなあ。何でおまえと、と
言われるくらいは覚悟してる。言われたって平気だ。だって自分で
もそれは不思議な部分だ。
 でもな、それでもあのひとは、
 あのひとは、オレの恋人なんだよ。

 反対隣の同僚が、緩んだイルカの顔をみて、その顔は誰かできた
な、と冷やかした。おや、と見開いた彼の目に、珍しく自分の晴れ
やかな笑顔が映ってる。
 イルカが照れながら、「オレは」と口火を切りかけると、そのは
にかんだ声をかき消す歓声が離れた一群からあがった。


「え、あの、はたけ上忍と付き合ってるの!?」
 

 え、とイルカは固まった。
 イルカはまだ――何も言ってないのに。声は、先刻から別の話題
に興じていた女性たちのところから発生していた。
  どうしてそんな話が飛び出すのだろうと、ぼんやりと思った。
  アルコールのせいで頭が働いてないから、解らないのかな。
  胸は、胸だけが、薄らぼんやりの自分を嗤うようにちくりと痛ん
だ。

 その衝撃の台詞に、こちらの一派も、話題に交ざる。
「え、今のなんだよー。誰が誰と付き合ってるって?」
「嘘っ。この中に居るの? あの写輪眼の恋人が?」
 向かいに座っていた女性の唇の動きが、呆然としたイルカの瞳に
はスローモーションに見えた。
  ――イルカは何も言ってない。みんなの視線が座敷の奥に集中し
ている。はたけカカシと付き合ってる恋人は誰だとそちらを見てる。
 誰もイルカを見るものはない。あっちを見てる。


  つまり、そこにいるのだ。
  はたけカカシの「恋人」が。


「アサヒがね、付き合ってるんですって」
「うわぁ、すごいじゃない」
  声に。滑稽なほどビクっと手が震えた。
 イルカもそちらの彼女たちの方をノロノロと、みた。
  くノ一達の誰が「アサヒ」なのかは、すぐ解った。みんなの注目
を集めて、得意そうに微笑んでいる。紅い唇。長くてまっすぐな髪
が艶々で、美人の部類。
 いかにも手触りが良さそう。手入れがされている茶色の髪。イル
カの、硬くてバラついた髪の毛とはえらい違いである。
 肌も白くて、手は白魚のようだ。あんな手なら、カカシに触れら
れても恥じることなどないだろう。――呆然とした頭で、まずそん
なことを考えた。イルカの手は子供と駆け回り、日に焼けて傷も多
くガサガサしてる。ついこの前、その手をカカシに取られじっと検
分されて、イルカは己の身の構わなさを恥じた。皮膚がボロボロな
のを見られるのはとても恥ずかしかった。 
 荒れてますねえ、とカカシは言った。びっくりしていた。呆れ声
ではなかったが、イルカはカカシの顔を見れなかった。何か言って
いたけど聞く余裕がなかった。男の目からみても確かにイルカの手
は荒れ過ぎなのだとそれだけ知った。

  そんな手と、女性の手じゃ比べ物になる訳ない。
 でも比べずにはいられなかった。
  なぜ比較対照とするのか。だって、付き合ってると。イルカが言
おうとしたことを、彼女が。
 何もかも違う綺麗な女のひとが。
  彼女は、カカシと付き合ってるらしい。

  彼女が


  カカシと



 ―――じゃあイルカは何なのだろう。
 変な話だと思った。
 普通、恋人というのは一人で。それはたったひとりの特別な相手
を指す言葉だ。だったら、イルカか彼女のどちらかは、恋人である
はずがない。認識に誤りがあるのだ。
  アサヒは、羨ましいと称賛を周囲の女性から浴び、ふふと笑う。
自慢げだけれど嫌みのない笑い。そりゃあ恋人が、あんな有名な上
忍なら得意でも仕方がないという空気。自慢のひとつもしたくなる
だろうという理解。
  はたけ上忍と付き合ってます。今度は彼女の口からはっきりと肯
定の返事が聞き取れた。イルカ以外の連中は、一斉に盛り上がった。
 酒の勢いと無礼講な場も手伝って、皆がわいわいとカカシの噂を
吐き出した。

 いわく、昔から人前では覆面をしているが、飲み食いの場では素
顔を晒すらしい。それがかなりの美形らしい。それを知ってるから、
くノ一の間では根強い人気があるらしい。昔からモテまくっている
わりにあまり特定の相手を作ったという話をきかない。――そうか、
俺は手が早くて女泣かせてるって聞いたけど。いいや、専ら色街で
浮名を流していたとかってさ。そういえば、最近、恋人がデキたと
かできないとか言ってた。そうか、その話は本当で、アサヒのこと
だったのか、と。アサヒは頷いた。特に嘘を、ついてるようには見
えなかった。


  カカシのことをイルカは考えた。
  あのひとも嘘をつくようなヒトではない。
  色んなことを切り離して考えられる、はっきりとした気性のひと
だとは思ったが、イルカを騙して喜ぶような悪い人間じゃない。

  付き合いは浅くても見誤るはずない。
  ナルトが信用してるひとだ。イルカは最初からカカシに対して好
印象を抱いてた。あのナルトの信頼を短期間で勝ち取ったひと。自
分は何年もかかった。そうやって積み重ねたものがカカシに劣ると
は思わないし、卑下もしない。でも驚いた。ナルトは嘘を嫌う子供
だ。身をもって知ってる。ナルトを懐かせるその器量に、正直感嘆
していた。だからあの心を開かせた上忍師が悪いひとな筈がない。


  そういえば。――付き合ってといわれたけれど、好きだとはっき
り言われた訳ではなかった。
  モテて、遊びなれしてるひとだから――それは本当のことで。だ
としたら。アレはもしかすると軽い冗談とか、そういう類いの会話
だったのか。悪気のない、言葉遊びとか。そんなの、だったのか。
  理性が理由を考える。
  釈然としなかったけれど、イルカは、他にこの状況をどう捉えて
いいのか解らなかった。でも心は悲鳴のように、違うっていう。

(そんな筈はない)



  だが、どこにも嘘がないのであれば。
 ――勘違い、という単語がイルカの裡に渦巻いていた。
  そうか。勘違いしてたのか。イルカは、間抜けな勘違いをして、
勝手に早合点してたのか。

 例えば二股という可能性。だが、あんな美人とイルカを両天秤す
る道理もあるまい。二股かけてみたくなるほどイルカに魅力がある
とは考えられなかったし、カカシからそんな匂いは感じ取れなかっ
た。
 でも、彼女がカカシの恋人だというのなら。
 イルカは違うということになる。
  そうなる。

 だったら勘違い? イルカは、カカシと恋人同士になったなどと
勝手に浮かれ、やはり厚かましい勘違いをしてたのか?


 ――そうでないなら、この状況は何だろう。


  だって、イルカが言ってみたかったことを彼女が言った。
  そう言えたらどんなに嬉しい気持ちがするのかと、ずっと憧れて
いたことを。一度でいいからとイルカが願っていたことは、彼女が
さらってしまった。

(どうして?)

 
  訳が解らなかった。

  

  イルカは、
  相手がカカシだから自慢したいんじゃなくて。
  もうひとりぼっちじゃないことを聞いて貰いたかっただけだ。
  ずっと他人を羨んでばかりきたから、一度くらい、誰かの特別に
なれたことをみんなに惚気てみたかった。

 そんな考えが浅ましかったのかな。人の気持ちに飢えてるから、
また、はやとちりしたのだろうか。

  確かにイルカは昔からおっちょこちょいで、焦って失敗ばかりし
ていた。よく笑われもした。
  何でも一生懸命頑張ることで、怪我に繋がるような過失を減らす
努力はしてきたが、所謂凡ミスは中々なくならなかった。子供たち
を指導するうえで、こんな頼りない教師じゃ申し訳ないと思い、最
大限の努力を払っても、才覚は中の中より上にはのびなかった。
  忍びとしてもひととしても、余裕がなくてダメなのは自覚してる。
 誰とも付き合ったことがないから。何が真実で何が誤りか、まる
でわからない。

  ああ、でも、こんな重大なことを間違えたりするものだろうか。


 ――カカシはキスが巧いのだという。噂の写輪眼は、近くでみる
と光彩が三つ巴の形に縮こまってるらしい。そんな話が聞こえた。


  写輪眼の、あの普段は隠されている、赤い特殊な瞳。あそこに浮
かぶ模様が巴のカタチだとか、イルカはそんな風に覗いたことはな
かった。間近で見せてもらったけど、夕日みたいに赤くて、うっと
りするほどきれいだとそう思って。

 ――キスが巧いかなんて。それもイルカには解らない。

  カカシとした。したことある。でも初めてだったから。舌が入っ
てきたのにびっくりして、唾が溜まって飲みくだせないと言ったら、
笑いながら吸い、舐めとってくれた。長いキスをしたらそんな風に
なるなんてイルカは知らなかった。巧いのかなんてわからない。た
だ、カカシの唇は気持ちがよかった。


(6回もしたのに)
 

 繁忙期に入る前に付き合ってと言われ、忙しくて時間のとれない
なか、確かに恋人らしい語らいとかそういうのはなかった。
 でも、それでも、時々少しでもあえて、二人きりになれたら。
  キスは6回した。数えてる。キスするたびに数えてた。
  心がふわふわして。満ち足りてる、と思った。
  全部何でも覚えておきたかった。
  付き合ってと言われて、キスもして、6回もして。
  だったらカカシは恋人なのだと信じ込んでた。
  確かに身体の関係はまだだったけど。
  恋人同士だからキスするのだと思ってた。
 イルカにキスをするカカシは自分の恋人なのだと信じていた。


  何をどこで間違えたのだろう。
  本当に間違えたのか?
  勘違い。――イルカの。本当に?
  隣の同僚がイルカの肩を叩いた。
  ごめんな。おまえの話が途中だったよな。さっきの続きはと促し
てくる。


 イルカは彷徨う視線をアサヒに留めた。笑ってる。腹の中に冷た
い塊を感じた。人の表情をみて胸が悪くなるのは初めてだった。い
つもは、複雑な、混沌とした感情で終わる。言い表せない。曖昧な
もので終わる。誰かを嫌うと相手からも嫌われるよ。ひとの気持ち
はそういう動きをするんだよ。世話役の大人から諭された言葉はイ
ルカを脅えさせた。みんな仲良くね。イルカは誰かを嫌うのが恐ろ
しかった。
 悪感情をもたれるのは嫌だ。ひとを不快にさせたら嫌われる。嫌
われるのは悲しい。

 でも。


 笑顔のアサヒに感じるこの気持ちが、我慢しなくてはならないも
のには思えない。どうしても。
 
 思えない。



  アサヒがカカシと付き合ってるのだとしたら。
  あのひとの言葉が本当なら。
  イルカの認識に嘘があるということになる。
  しかし、こんな大事なことを間違えるほど自分は愚かなのか。

 ――本当に?

 カカシを信じる信じないのまえに、イルカはまず自分を疑った。
疑うのは簡単だ。どんなことでも。臆病なのだ。人を傷つけて嫌わ
れるのがとても怖い。人を悪く思う前に、自省するのが癖になって
る。でも、それでは裏切りにならないか。カカシへの。カカシを恋
人だと認識していたイルカ自身への。ここで自分が誤ったとするな
ら、本当に何を信じたらいいのか解らなくなる。

  イルカがカカシから受け取ったものは間違いなく、この手の中に
あって。――オレと付き合ってくださいよ。いいなと思ったんです。
緊張もなく、簡単に言われた言葉を、あの時自分は不思議と軽いと
は思わなかった。両親がイルカに注いでくれたものと、意味合いは
違ったが、それは確かにイルカだけのものだった。
  付き合うというのは、恋人になると同義で。だからカカシはイル
カにとって恋人だ。キスより先を知らなくても、カカシは確かにイ
ルカの恋人だ。


 そう言えば嗤われるかもしれない。そうじゃなくても、この状況
でイルカがそれを口にすれば、楽しい場は台なしになる。


「あ! イルカの話が途中だったよな」
 思い出したように今度は向かいのやつに問われた。


 イルカは頷いた。
「オレにも恋人ができたよ」


 何人かが、良かったじゃないか、と歓声をあげた。
  その声で、全体の注目が集まった。
 アサヒもこちらを見た。
  ――言えば、みんなを嫌な思いにさせるかもしれない。
  和を乱す。ひとを不快にさせるのは苦手だった。
 でも、苦しい。悔しい。いやだ。嫌われるより、好きなひとが一
瞬でも奪われるのはいやだ。どうしても。みんなに。
  ここにいる全員にはっきりと。
  だってあのひとは。


  イルカは、言った。



「オレ、カカシ先生と付き合ってます」








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