痛い、痛い


.




 室内は、一瞬しーんとなった。




  カカシ先生? と呼称を訝しむように誰かが呟いた。はたけ上忍
でしょ。カカシ先生って。ああ、今は上忍師だから―――…

  間をあけて、誰かがプっと吹き出した。さざめくように、笑いが
伝播した。
「いやーだ、びっくりしたー。真顔で言うんだもの」
「イルカ先生もそんな冗談言うんですね」
 向かいの席の職員たちは笑顔で続けるのに、隣の同僚がはーっと
大袈裟に胸を撫で下ろす。
「驚かすなよ、イルカ。本気で言ってるかと思うじゃないか」
「そうそう。本当だったら大問題だぞ」

 黙って答えないイルカの肩をバンバン叩いて、別の同僚が全員に
釈明するように腕を振った。
「イルカは、はたけ上忍と飲みに行ったことあるんですよ」
「何度かあるよな、イルカ」

 イルカの強ばった頬がひくりと引きつった。
 ―――それはまるで、とりなしてるような言葉だった。あんな有
名な上忍をつかまえて勝手に恋人扱いとは不敬だけれど。イルカに
とって満更知らぬ仲じゃない相手だから、軽口のネタにしたんです
よ。大目に見てやってくださいね、と。
 イルカの一世一代の告白は、誰ひとり真剣に受け取ってくれずに
流されてしまった。

「あら、飲みにいく仲なんですか」
「お友達なんですね、それもスゴイじゃないですか」
「恋人と友達がここで偶然一緒になんてねえ」

 白けた空気を打ち消すように、皆口々に明るく言う。
 アサヒは、怒るでもなく苦笑いしていた。
「イルカせんせいって冗談がお上手なんですね」
 いかにも、本気になんかできませんよ、という笑顔。 

  アナタみたいなひとがそんなこと言っても本気になんかできませ
んよ。だって、そんなの一目瞭然でしょう。

  アサヒとイルカ、どちらが写輪眼の恋人か。疑う余地もないと。
  瞳の奥で、哀れむみたいに、イルカを見ていた。
  酔ってニブさは増してても、侮辱くらい判る。イルカは悔しさか
ら、赤面した。笑われたのも、悔しくて。言った。
「……冗談なんかじゃ、ありません」
 イルカは、膝の上の拳をぎゅうっと握り込んだ。
「カカシ先生は、オレの恋人です。つ、付き合ってます」
「――イルカっ?」
「おい、いくら何でも」
 しつこいぞ、と慌てた同僚をイルカは振り払い、
「本当の話です。カカシ先生とオレ、付き合ってますっ」
 言い切ると、先程とは比較にならない重い沈黙が辺りに落ちた。
  嘘でも冗談でもなく、イルカが本気で言ってると信じない訳には
いかなくなって困ってる。
  写輪眼と付き合ってる女がこの場にいて、イルカまでそうだとい
えば大問題。確かに、――問題。


 同僚は、突飛なことを言い出したイルカに声もでない様子で、見
知った顔は、複雑な表情をみせている。アサヒの周りのものも困っ
たようにイルカとアサヒを見比べていた。
「……イルカせんせい、二股されてるって仰りたいんですか?」
 彼女は相変わらず、あからさまに不機嫌そうな顔はみせない。
  ただ、せんせいと呼ぶとき、どこか小馬鹿にしたような印象をイ
ルカは受けた。
「カカシ先生は…、そんなひとじゃありません」
「だったら、勘違いじゃないかしら……」
  アサヒはあくまで優しく、困った風にそう呟いた。

 ――ねえ、イルカせんせい。勘違いしたんじゃないですか。そう
なんでしょう。仲良く飲みにいったりしたものだから、ちょっと錯
覚したのじゃないかしら。きっと、はたけ上忍に憧れてらしたのね。
分かりますよ。あのひとは素敵なひとだから、よくあることだもの。
優しく声を掛けられて舞い上がってしまったのね。だからそんな勘
違い、なさったんですよね。

「違います……!」
 イルカは、必死に否定した。巧く動かない口がこんなに辛いのは
初めてだった。
「違います。ちゃんと付き合ってます…っ! カカシ先生が付き合
おうって言って、だから、オレは」
「証拠、あるんですか?」
 アサヒは、ふいに冷めた顔で言った。
「しょ、うこ……?」
「はたけ上忍とあなたが付き合ってる証明ができます? だってご
一緒の方も全然知らないみたいだし」
 それはアサヒも一緒じゃないか――と思った。なのに、周囲はア
サヒの言葉に得たりという顔をした。イルカとアサヒでは、どちら
が写輪眼の恋人と名乗られ説得力があるかといえば――アサヒだ。
 だからアサヒの言葉は疑わない。でもイルカの話は誰も信じない。
 イルカが虚言を吐く人間だとは考えたりしないが、勘違いは誰で
もするからと。結局信じてくれない。
 だって地味でもっさりしてる無骨なオトコと、綺麗なくノ一と比
較するのも馬鹿馬鹿しいから。ただ、イルカが懸命に言い張るから、
困って。段々と困惑は哀れみの眼差しになりつつあった。

 イルカに腹を立てるのは可哀想だと。だって、あのいつも真面目
な中忍先生だし。恋人のアサヒがやんわりやりこめてるのだから、
外野まであげつらうのも可哀想だからと。勘違いしたのなら、仕方
ない。野暮ったいひとだから、やさしくされたら勘違いぐらいして
おかしくない。まあちょっと馬鹿みたいだけど。

 そんな孤立無援の空気のなかで、イルカはそれでもカカシは自分
の恋人だと主張することをやめようとはしなかった。 
 証拠はあるのかという問いかけに、思いつくまま口にする。

「キ、キスしました……6回」
「6回?」
 回数を復唱し、くすりとアサヒは笑う。
  何人かもつられて失笑を洩らした。

「本当にされたのか、それも証拠がないですよね? イルカせんせ
い。――まあ、たとえ本当にしたと仮定して、キスしたから恋人だ
なんて。カワイイこと仰るんですね」
 完全に馬鹿にした言い草だ。論旨のすり替えに、イルカは屈辱で
更に真っ赤になった。 

  キスしたから恋人なんじゃない。恋人だから――だからキスをし
たのだ。回数をいうことはそんなに可笑しいのか。それはカカシが
好きだという気持ちを笑われたに等しい。好きで好きで、嬉しかっ
たから覚えてる。それは、そんな風に笑われることなんだろうか。

 初めて泣きそうになった。
「カ、カカシ先生は、……オレの恋人なんです」
「それは勘違いです」
「違います…っ。やさしくて、いつも、子供たちの様子とか教えて
くれて」
  ―――そうだ。付き合う前、立ち話でも、飲みに行っても。カカ
シはイルカの元教え子たちの成長を聞かせてくれた。それはイルカ
が喜ぶからという理由だけでないことが嬉しいと、イルカはそう感
じていたのだ。
 子供たちを語ることはカカシ自身の話でもあるから。今のカカシ
は上忍師で。だから日常の話は、部下である子供たちと常に共にあ
る。それが楽しければ楽しいほどに、子供たちが伸びていること以
上に良かったと思っていた。
 辛いことの多い子らだから。少しでも幸いが日々にあることが嬉
しかった。カカシにも子供達にも。両者の、その密接さをイルカは
喜んだ。
 カカシを知ることであり、子供たちの近況であり。そのどちらも
イルカは嬉しかったのだ。

  だからイルカは知ってる。
 ――カカシの日常の話の中にアサヒの存在は一片もなかった。


「恋人だっていうわりに――子供の話なんかしてるんですか? い
かにも教師らしくてけっこうですけど」     
 困るわ、と彼女はため息をついた。
「思い込みが激しいのはわかりましたけど。イルカせんせい、ちょっ
と厚かましいっていうか……やめてくださいね? そういうのやめ
てくださいね――はたけ上忍に恥をかかせるような嘘つくの」
  子供に言い含めるようなアサヒの声。
 恥―――イルカと付き合うことは、恥ずかしいことだと言わんば
かりの暴言を、咎め立てするものは誰もいなかった。

  みんな、イルカの言葉を信じていないから。言い過ぎでも、仲裁
には入らない。どちらかといえば悪者はイルカだと。思い込みをし
てるから。アサヒにいやな思いをさせる頑迷なイルカが多少詰られ
ても当然だと思っているから。
「嘘、じゃありません……」
 言い返すイルカに、アサヒはあからさまに呆れた、という顔をし
た。
「あの、恥ずかしくないんですか。ちょっと優しくされたくらいで
舞い上がって恋人面なんて。お酒の席だし水に流してあげますけど、
ちょっと本当に厚かましいひとなんですね。イルカせんせいって。
知らなかったわ」
 いかにも軽蔑するみたいに。上段からものを言われて、辛いのと
悔しいのとで息苦しくなる。
「……なんでっ、オレが、あなたに許してもらわなきゃいけないん
ですか?」 

 まだ楯突くのは目に余ると思ったのは、アサヒよりも周囲のほう
で、同僚も険しい声で、イルカ、と呼んだ。
「おまえ、酔ってるんだろ? 送ってくから、もう帰ったほうがい
いぞ」 
「そうだよ。ちょっとおかしいよ。いつものおまえらしくない」

 ――その言葉にますます悲しくなる。

  おかしいのか。自分の恋人を恋人だと言うことが。そんな当たり
前のことを咎められたイルカが悪くて、咎めるアサヒが正しいのか。
厚かましいと嗤われても当然だというのか。

 この場で何を言っても無駄だということが身に滲みた。
  誰もイルカの言葉を信用してくれない。
  他の、別の事なら多分信用してしてもらえた。でも、カカシと付
き合ってることは嘘だと、それは有り得ないと。そう思われてしま
うのは、イルカみたいなのに写輪眼が付き合ってと言い出すわけが
ないから。アサヒの方が似つかわしい。根底にそんな感情があるか
ら。

 どうしておまえと、という非難ならかまわない。
  でも、本当のことを言ってるだけなのに。信じてもらえない。
  理不尽で、あんまりだ。
  ――あんまりだ。


  眼底が熱くなって、視界が歪みだす。泣いたりしたら、みっとも
ない。大人で、イルカは中忍なんだし、いい齡した男が泣いたって
無様なだけだ。みっともない。ちゃんと喋って、みんなに言わなく
ては。しっかりしたところを見せて、説得しなくては。カカシ先生
と付き合ってるのはオレだって。恋人なのは、オレなんだって。ど
んなに否定されたって、本当のことなんだ。嘘なんかついてないん
だ。
 でも、ぽろぽろと涙が勝手に零れ出した。
  溢れ出して、止まらなかった。
 悔しくて、頭がかーっとなってるせいだ。
  ひとを責めたり謗ったりするのは苦手で、確かに自分には向かな
い作業だけれど。口汚くて減らず口の叩ける人間に、今だけはなり
たい。だめなら、せめてもうちょっと、口の巧い人間に。

  イルカは我慢できずにしゃくりあげた。
  みっともない。なんで、こんな大事なときに、涙なんて出てくる
んだろう。
 言わなくちゃいけないのに。
 信じてもらえるまで、声に出してちゃんと言わなくちゃいけない
のに。
(カカシ先生は、オレの恋人なんだ)
 ―――泣いたりしたらもっとバカにされる。

 言わなくちゃ。
 言うんだ。

 なのに、

  嗚咽で喉が塞がれて、全然、言葉にならない。
 




「―――イルカ先生?」





  うんざりとしたような場の空気を一蹴する声。
 呼びかけたのは、アサヒでも職員でも、その場の誰でもなく。
  カカシだった。




*





 全員、ぽかんとして、其処に現れたカカシを見ていた。
  女性職員の背後、出入り口の襖を音もなく開いて。
  いったい、いつの間に。
 ここに居る半分以上が、忍びで中忍だというのに。まったく気付
けなかった。
  イルカに注目が集まってたにしても、何の気配もなく現れたので、
ぎょっとしたのだ。
  しかも、渦中のひとだ。アサヒと付き合ってるひとで、今し方ま
でイルカが恋人だと言い張っていた相手で。イルカはボロボロ泣い
てる。これはやり込められての反省の涙だとしても。気まずい。
  事情を説明すれば、はたけ上忍も気分を害すだろう。たかが顔見
知りの中忍が――しかももっさい男が、彼女の前で、自分を恋人扱
いしていたのだ。気分は良くないに決まってる。

  なんで現れたのかはあまり疑問に思わなかった。彼女が飲み会に
参加してれば、マメな男ならお迎えにあがって不思議はない。多分
約束がしてあったのだろう。やはりアサヒと付き合っているのだ。
イルカもこれで思い知っただろう。写輪眼の恋人は自分じゃないと。


 誰もが少なからずそう考えていた。
 ところが―――――


「イルカ先生、泣いてるの? どうしたんですか? 気分でも悪く
なっちゃったかな?」
 脚絆を脱いで堂々と座敷に上がったカカシは周囲に目もくれず、
まっすぐイルカの元に行ってしまった。誰にも、アサヒにも一瞥も
くれないで。
「…カ、カカシ、せんせー……」
「大丈夫ですか? 何かあったの?」
 イルカは涙腺が壊れたままだ。カカシを見ても涙を零してろくに
喋れない。カカシは隣の中忍を仕草でどかせて横に座る。
「泣かないでよ。いったいどうしちゃったの」
「……っ、だって…っ」
 そう言ったきり言葉にならないらしく、首を振り続けるばかりの
イルカに、カカシはどうしたのと問い続ける。事情を明かさず放っ
ておける状況でもなくなって、どけと命じられて後ろに下がったイ
ルカの同僚は恐る恐る声を掛けた。


「―――あの、はたけ上忍?」
「何?」
「イルカの、それは、自業自得と…いうか―――……」
「どういうこと?」
「イ、イルカが、その……、さっきまで、はたけ上忍と……お付き
合いしてると言い張ってまして。だから――」
「――なに、ソレ」
 そう呟いたカカシの声はひんやりしていた。
  怒らせた、と解った。説明責任をおわされた中忍は、殺気に近い
怒りにビクビクと身を竦ませた。
 カカシは、冷たく続ける。
「言ってる意味が解らないんだけど?」
「あ、あの、イルカも悪気があって言った訳では…っ」
「だから、それが解らないんだけど? オレと付き合ってるってイ
ルカ先生が言って。それがどーしてこーなるの」
 ――上忍への緊張はあっても、プライベートな場であるから、多
少の失言はありだろう。
 でもこれはそういう次元じゃない。なのに――――

 酔いは醒めかけてる。脅えはあるものの、カカシの言動が「何か
違う」ことくらは判った。
  カカシは、イルカが言った内容には怒ってない。知り合いの中忍
風情が恋人だと言ったことには全く怒っていない。というか、まる
でカカシの反応は―――
 そんな、まさか、そんな。中忍も周囲も、さすがに何かが違って
ると気付いた。「違う」のは、自分たちの認識とカカシの言動だ。
あきらかに、喰い違っている。
 背筋に冷たい汗を掻きながら、代表で、中忍が遠回しに現状を把
握にかかる。 

「……は、たけ上忍は、イルカと、どのような、関係なんでしょう
か………?」
「それは、イルカ先生が言ったんじゃないの?」
 カカシはあくまで冷ややかに言う。手は、イルカの頭を撫で続け
ている。その仕草と切り返しが、一同の胸をずんと重くする。イル
カが言い続けた二人の関係。――確かに言っていた。しつこく。繰
り返し。嗤われても貶されてもバカのひとつ覚えのように。

 しかし、それを否定したことからこうなっている訳で。イルカが
言ったそれを信じてないから、あえて尋ねてみたわけで。そもそも、
カカシの恋人は、アサヒだとそう彼女が言っていて―――。
 おかしな雲行きに、もの言いたげな視線がアサヒに集中した。
 彼女は恋人であるはずなのに、まっすぐイルカの元へ寄ったカカ
シを咎めることも、何かを問うこともなく、黙り込んで動かない。
 あれだけイルカを辱しめていた女性が、青ざめて、身じろぎすら
しないでいる。これは――・・・おかしくないか―――。

 意を決したように、イルカの向かいの席の女性がカカシに問うた。

「あの…はたけ上忍は、アサヒと付き合ってるんじゃないんですか
?」
「――アサヒ?」 
「はい。彼女を迎えに、此処に来られたんじゃないんですか?」
 カカシは平坦な声で一言、言った。




「誰、ソレ」






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