痛い、痛い


.





*



 手の中でカカシが貝殻を転がしていると、横から女のアラ、とい
うわざとらしい声が上がった。     

「なによ。何だか、匂う」
「んー、コレ? 特製の塗り薬」
「ふうん。でも臭すぎ。贈り物なら考えたほうがいいわよ」
 
  カカシが塗り薬なんて可愛いものを必要とするわけがないと、長
い付き合いで知ってる女上忍は、それをプレゼントと決めつけて、
口を出してくる。
  昼間の待機所でこうしてかち合うということは、部下たちはまた
サバイバル演習か、Dランク任務か。
 紅は、カカシの手から絵付けされた貝殻の容器を取り上げて、貝
を開くと中身を匂った。 
「――やっぱりキツい。これ手荒れ用? 家で使う分ならいいけど、
外出には向かないよ。薬草臭くて、ちょっと湿布っぽい」
「そう?」
  薬を詰めた貝殻を取り返して、カカシはくんと匂い直した。
 匂いと効能は正比例なのだが。昨日カカシが調合した塗り薬は、
普段自分が必要としないモノな為、匂いのことまでは気を回さず作っ
てしまった。確かに匂いはかなり強い。そうか、臭いのか。失敗し
たな。今日あげようと思ってたのに。
 隠した口元から溜め息が洩れる。
  隣に腰掛けた紅は、待機中の暇つぶしの一環なのか、つつっと身
を寄せてきた。
「もう一つ外出用のを一緒に贈ったら? あたし、匂いがなくて肌
に優しいの作れるよ?」 
「……で、代わりに何すりゃいいの」
「欲深なことは言わないわ。――飲みたいお酒があるのよねえ」
「いいよ。一本だけね」
「じゃあ、今晩作って明日渡す」


 そこまでが昨日の話。



  今日。
 イルカ先生と付き合ってると言ったら、紅は喉越しの悪いものを
飲み下したような顔をした。
  そこまで驚かなくてもと思う。
「カカシが?」
「そう」
「イルカ、あのイルカと?」
「そう」
 翌日の任務あけに、紅が小さな缶に塗り薬を詰めて持ってきたの
で、カカシはそのまま約束通り飲みにでた。飲みたがってた酒が置
いてあるという店に入り、先付けをつついていたら、紅は誰に贈る
のかと尋ねてきた。だからイルカ先生と答える。何で? だって付
き合ってるから。本気? うん。 

「へえ意外。アンタってもっとこう――」
「何よ」
「気が強いっていうか、はっきりものを言うようなタイプが好きな
んだと思ってた」
「あー、まあね」
「イルカはいいやつよ。気が優しいし、生徒のことに一生懸命だし。
でも、自分のことだと、いつも必要以上に気持ちが引けてるじゃな
い。そういうの、カカシは好きじゃないんじゃなかった?」
「イルカ先生の場合、その引けてる中身の奥のトコロがね、実はか
なりオレの好みなんだよね」
「……信じられなーい」          
「そう? でも、実はかなり前からいいなあって思ってたんだけど」
「馬鹿、知り合ったのは最近でしょ」
  紅は、いい加減なこと言ってる、と目を細めた。
  ちなみに、嘘ではない。カカシは頭を掻いて告げた。
「ホントの話だよ。半年くらい前から見てた、イルカ先生のこと」


  三つ離れた席の客が、ガタガタと音を立てて立ち上がる。
 カカシは呑みながら、チラと横を見る。その客ではなく、もっと
奥。壁を透かし見るように、向こう側へ意識を向ける。
 二人はカウンター席の真ん中に腰掛けていたが、折れた通路の奥
の方、おそらく座敷があるのだろう、そちらに―――よく知ってる
気配がある。 

「偶然ね。イルカ居るじゃない」
 紅も気付いたらしい。気配を探ればすぐに解る。忍びは便利だ。
  カカシは自慢して胸を張る。
「ホント。縁があるんだよねえ。オレとイルカ先生って」
「嘘くさ」
「いやマジで。いいなあ、と思ったのが半年前で。それが二月も経
たないうちに下忍抱えてさ。そいつがイルカ先生の大事なナルトで
しょ。あとは労せず急接近だもん」
 紅は呆れまじりの息をついた。
「――純朴な中忍弄ぶのだけは、アンタやめときなよ」
「…………どーゆーイメージなの、オレ。そんな悪いことするわけ
ないじゃない」
 返るのは気の抜けたような笑い。
「ああ、そうね。そういや噂の半分も、実際悪さはしてないか」
「あのさー、どんだけ悪いオトコだってのよ」
「郭で揉めてたのは本当じゃない。散々女泣かせたのはアスマから
言質とれてる」
「――昔でしょ、昔。若かったの! ずっと商売のオンナしか抱い
てないよ。面倒臭いから慎んでるし。てゆーか、恋人できたんだか
ら。そんな性欲の処理すらしてません。浮気はしない主義だから」
「ふうん…案外、真面目?」
「だから、どんだけ酷いの。オレのイメージ」
 カカシはガクリと項垂れた。体をずらし、紅から距離を取る。
  紅は飲み続けながら、横目でチラとカカシを見て、馬鹿ねえ、と
言った。
「最悪に決まってるじゃない。アンタの女ってのがあちこち居たし
ね。そっから変な噂が増えるわけ。見たとこフカシなのも混じって
たけど―――」
 カカシは肩を落としてため息をついた。
「ハイ、それ全部嘘。里で付き合ったオンナいないもん。どうもフッ
た端からオレの噂って種類が増えてるみたいなんだよねえ、だいた
い本当のとか、激しく嘘のとか」

 そして、その嘘に便乗した迷惑な嘘が新たに生まれる始末だ。こ
の里の風紀は最近ちょっとおかしすぎる。風評被害だ。迷惑千万の。

 紅は、結局はカカシの不徳の致すところだと知らん顔をした。
「あっそ」
「そのうち、イルカ先生に誤解されたらどーしよう?」
「知ったこっちゃないわよ」
 本気の相手なら、自分で何とかしろ、と紅の顔にはそう書いてあ
る。――何とか。何とかねえ。理想をいえば、誤解を撥ね付けるほ
どの強力なバリアーをイルカに持たせてやることだ。愛情とか信頼
とかそんな名前の。強固なやつ。
  今のとこ、それが機能してるか半信半疑。
  愛は腐るほどあって、自分では注いでるつもりだが。イルカに染
み込んで行き渡ってるかは分からない。そんなの、当人でないと分
かりはしないのだ。


  カカシは懐から、貝殻に詰めた薬を取り出した。
  イルカに渡したい薬。貝殻の絵付けも自分でした。赤く塗って金
で縁取りしただけだけど。贈り物だから、見栄えもした方が喜んで
貰えるのかなと思って。
  それを、紅に作ってもらった薬と並べて眺めてみる。

  好きって言わないの、わざとだったりしたんだけど。あのひと気
付いてくれてるかな。
  ―――この前見たイルカの手はびっくりするほど荒れていた。
元々荒れやすくて、時々、それがうんと酷くなるらしい。ガサガサ
した皮膚の感触に、痛くはないのかと心配になった。尋いてもイル
カは答えなかったが、みっともないところをみられたと見当はずれ
な動揺をしていたようだ。
  荒れた手でカカシと触れたことを負い目に感じた雰囲気だった。
別にカカシはどんな感触だろうと気にならない。ボロボロでも何で
も好きなひとの手。感じるならもっと他のこと。そういうのって、
伝わらないのかな。――伝えたいなあ。本気なんだし。

 あの時カカシは、ただ、赤らんで皮の剥けたイルカの手を無造作
に掴んでしまったから、痛い思いをさせたのではないか。その方が
気掛かりだった。

  ―――好きなんだから、それが当たり前じゃない。ねえ?

  解ってないイルカ。臆病なひとなのだ。
  イルカはカカシを信用してない。いや、信じてはいるが、自分の
方をあまり信じてないのか。だってあのひと、まだ全然素じゃない
し。
 カカシは、これがこのひとの素かなあ、と思う部分を知ってる。
 半年前に。
 あのひとは覚えてないが、カカシは確かにそれに触れていた。



 真面目で誠実で頑張り屋。そこは自分を無理して作ってないけど、
その奥にもっと別の自分を隠していたイルカ先生。
  あのときも、こんな風に飲み屋で、カウンター席で。
  イルカはカカシの隣に座っていたのだ。
  一緒に飲んでいた訳ではなく、偶然、たまたま隣り合っただけ。
見も知らない隣のやつを意識して飲んだりしないから、最初は全く
そちらを見もしなかった。
 だけど、耳に飛び込んできた言葉がカカシの気を惹いた。
 隣の男――イルカが、偽善者と呼ばれても別に気にならない、と
そう言ったから。


 強がりかなあ、と思った。初めは。あとは何となく、飲みながら
会話に耳を傾けた。イルカは同僚らしき男と飲んでいて、忠告めい
た小言を言われていた。

「気にならないってなあ、イルカ。俺のほうが気になるよ。生徒の
親からも、言われてただろ。おまえ、構い過ぎだよ。あいつに」
「普通だろ? 保護者のいない子供が他にいても、オレは同じよう
に構うし、ナルトが特殊だからって放置しとくほうが――」
「馬鹿。そこが偽善だって言われるんだ。おまえだってあのガキに
は含むとこがないわけじゃないだろ。そんなおまえがあいつに構う
から偽善者って言われるんだ。そりゃ俺らはそこまでは思わないけ
ど正直、やりきれないってゆーか」
「……オレはあいつが可愛いよ」
 イルカは、考え込んで、白状するように告げた。
「オレの生徒だから可愛いんだ。そういう理由なんだ。確かに係わ
りが希薄だったらこうは思えなかったと思うし、可愛いと思う気持
ちの裏に引け目もある。考えちゃまずいことも考えなかったわけじゃ
ない」
「ほら、だったらさ」
「そう思うオレは確かに偽善者だと思う、偽善でナルトに構ってるっ
てことになる。でもそれって………そんなに悪いことか?」
「…フツー偽善を喜ぶ奴はいないだろ」

 男は一般論を言った。
  まあね、とカカシも胸の内で頷いた。
  イルカは、手の中で酒の器を回しながら、酒場の喧噪に溶け込む
ように呟いた。

「でも、偽善ってつまり善だろ。心はどうあれ、行いは正しいって
ことだろ。嘘つきが、良いことをするから偽善者なわけだろ?」
「…そういう見方するか、普通」
「屁理屈だよな。解ってるけど」
 と、イルカは鼻にある特徴的な薙いだような傷を掻きながら、小
さく笑った。
「でも、そう思える限り、ひとから偽善者って言われるのは気にな
らないんだ。少なくともナルトにいいことがしてやれてるんだって、
そう信じられるだろ。オレは沢山足りなくて教師としてもあんまり
デキはよくないけど。ひとつくらいは正しことがやれてるんだって」
「……あんなガキにか?」
「あいつは――、今でこそ触らせるけど、昔は全然オレに懐かなかっ
たって知ってたか? まるでオレの葛藤見透かすみたいに側には来
なかった。でも、たとえ偽善でも、あいつのためになるならいいか
なって。そう思えるようになったら、それだけで側にきたよ。あい
つが寄ってきただけでも、まあいいかなと。こんな偽物でもあいつ
が受け取ってくれるなら。……オレは、やりたいから――…」
  囁きに似た声は、言葉にできた安堵を含んでいた。


  かなり、変わったモノの捉え方をするなあ。
 
 
  ほんと、屁理屈くさいけど。しっかり盗み聞きしていたカカシは
非常に驚いた。――驚く。久しぶりだった、それ自体が。
 単純なプラス思考とは違うし。
  てゆーか、複雑? 割り切れてないけど、頑張っちゃってんの?
  へーえ。

 ―――そんな切り返しがあるのかと感心したのも久しぶり。カカ
シは、それを口にした狐子――ナルトという名の子供は里にはひと
りだけだ――の先生であるらしいイルカに強い興味を持った。

(なんか、いいなあ)

 困るよ。てらいなくこっちを唸らせるようなことを、言い切られ
たら。―――好きだなあって思うに決まってるじゃない。


  そういう訳で、お近づきになってのち、付き合ってと言ってみた。
  常のイルカは、遠慮の塊で、物足りないくらい自制してて、ダメ
なひと。今のところ教え子に関してくらいしか、はっきりものを言
えない。イルカの違う一面を知らずにいたら、カカシも単なる地味
な中忍としか思わなかった気がする。
  ―――でも、もう知ってるから。
  カカシが好みだと思った素の部分は平時は隠してみせてくれない
けど。その臆病さは、自分が治してあげたいかもと思った。
 キスとかしてみたら、やたら可愛いし。もっと、と思いながらも
カカシは我慢してるのだ。何故なら――――
  簡単に頷いて、気持ちを寄越したイルカ。でも、カカシのそれが
欲しいとはまだ言えないイルカ。好きって言わないのはわざとだ。

 詰ってくれていいよって合図。
  好きなんだし、当然のことを要求していいよ。伝わってたらでき
るでしょ。して欲しい。

 地道に愛情を注げば、その自信を糧に、殻の外にでてくるだろう。
出ないなら引っ張り出すけど。まだしばらくは地道にやってく。

  たとえば、この塗り薬のように。
  思いやるのは、好きだから。それを分からせてやりたい。
  そしたら、酔ってなくても、教え子以外のことでも。自分の考え
とか気持ちとか、外に出してくれるだろう。
  そんなイルカはどれ程いいかな。
  不自然より、自然のほうが呼吸は楽に決まってる。
  





 和紙を通した暖かなオレンジ色の明かりが、猪口の中の透明な液
体に映り込み、ゆらゆらと揺れた。

  途切れた会話を苦にせず、紅は機嫌よく酒を空け続けている。
  紅が頼んだ酒は辛めの、かなり癖があるものだったが、舌には合っ
たので同じものを頼んだ。化粧室に用があるのだろう、しばらくし
て彼女が黙って席を外すのに声は掛けずに、カカシはお品書きを手
に取る。
  ―――イルカが居るなら丁度いい。このまま此処で紅と飲んでい
てもかまわない。どうせあっちは同僚との飲み会だろうし、帰ると
ころを掴まえて一緒に帰ればいい。この塗り薬も渡せるし。道すが
ら、物陰ででも、酒の味がするイルカの舌を味見したい。

 木訥で、物慣れないイルカが、キスを真っ赤な顔で受けるさまは
可愛いと思う。決して線は細くなく、骨の太いひっつめ髪の地味な
男なのに。恥ずかしそうに、じっとしてる仕草は、たまらなく可愛
い。思いだし笑いに口元を弛ませる。カカシが残りの酒を半分空け
た頃、ようやく紅が戻ってきて、椅子を引いた。

「……カカシ、あんたの『恋人』があっちに居るみたいよ?」
 頑丈な木の椅子に張られたキレイな座布団が、かたちのいい尻の
下敷きになる。その過程で、何故か気味の悪い程に楽しそうな声が、
頭から落ちてきて横に並んだ。
「そりゃ、居るよね」
 さっきからずっと。なぜ改めてそんなことを言われるのか全く理
解できない。どういう意味だか。さっぱり。

 紅は、しらじらしい程にっこり微笑んできた。
「化粧室ってねえ、座敷のまえの通路を過ぎて、まだ向こうにあっ
たのよ」
「ふーん」
「ついでに、何となく。イルカの居るお座敷の様子窺ってみたわけ。
勿論、気配は消して」
「ああ。遅かったのはそのせいだって言いたいだけ?」
「違うわよ」
 面白いことになってたから聞き耳立ててたのだと、紅は赤い唇を
意味ありげに動かす。

 でも、あんたには面白くないかもね。面白がるようなら、さすが
に軽蔑するかもね。紅は嫌がらせのように、まどろっこしい会話を
続けた。いかにも楽しげな顔。機嫌のよい声。でもそれを裏切り眼
の光は冷たく、底は冷えている。実はかなり腹を立ててるらしい。

 いやな予感に、じわりと陰鬱な気持ちになる。

「……イルカ先生、芸でもさせられてたとか?」
「だったらいいけど? ――あんたの『恋人』を名乗る女に笑い者
にされて、あの空間で、そりゃもう見事な修羅場を展開してるのが
余興と呼べるのならね」
 


 ―――カカシの姿は一瞬で掻き消えた。 










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