痛い、痛い


.



*


  誰ソレ。――素っ気ない口調で、たったの一言でも。不審の色を
纏っているその返答が、すべての答えだった。




 えぐと、しゃくりあげるイルカとカカシを除く全員が、引っ繰り
返された事実に困惑と動揺を見せる。視線はアサヒに。彼女は青ざ
めていた頬を一転、カカシの呟きに羞恥からか紅潮させ、膝の上で
かたく手を握り硬直した。

「え……、だって――……?」
「…付き合ってるって、あの子―――」
「ア、アサヒ……!?」 

  ――――アサヒがあれ程自慢げに語ったじゃないか。
 勿論上忍の方にどういうことだと事情を詰め寄る訳にもいかず、
訝しむように、半分は非難を滲ませてぽつりぽつりとあがる声。
 アサヒは黙りこくっていて、ふて腐れたように、誰とも目を合わ
せようとしない。カカシは彼女を一瞥し、すっかり冷めきった表情
をした。

「―――だから、さっきから何なの?」

 そのカカシの声の不機嫌さにビクリと脅え、横の中忍が咄嗟にす
みませんっと言い、居住まいを正した。
「アサヒなんて名前、知り合いにも居やしない赤の他人の名前連呼
されて、すごく気分悪いんだけど。そんなどーでもいーオンナを勝
手にオレの恋人にしないでくれる? 話だけでも――ウザイ」 
カカシは小生意気な部下の口癖を真似して心底嫌そうに周囲に告げ
ると、再度アサヒの方を見て呆れた顔をした。

「趣味わるー」
「は、たけ上忍?」
  もしやそれは、もしかしなくても女性としての評価だろうか――。
 上忍の呟きに、向かいの席から思わず伺う声。カカシは非情なま
でに淡々とあとを続ける。

「―――どこから見たって上忍のオンナ名乗るのが好きな中身のな
い馬鹿女。都合が悪いと黙って、本人が居ないところだと恋人気取
り。厚かましいにも程があるでしょ。頭おかしいんじゃないの。て
ゆーか病院行きなよね。オレの趣味が疑われるし、迷惑」
 あからさまな侮蔑に、アサヒの肩がふるえた。 
  先刻、アサヒがイルカに言っていたコト。恥だとか厚かましいと
か、それが今そのまま彼女に返していることをカカシは知らない筈
だが、まるで承知してるみたいな言葉の選び方で。
 さすが上忍。屈辱が罰だとしたら的確な台詞だった。


「あとね、コレ。アンタらにも責任あるんじゃないの」


 次いで、カカシはボロボロ泣きっぱなしのイルカの状態に触れて、
周りに仕草で示す。
 勿論、場の気詰まりは、一向に晴れやしないのだった。
                            

 虚言を吐いたのも、イルカをあげつらっていびったのもアサヒ。
 取り敢えずそのアサヒの嘘が明るみに出て断罪もなされて。
 じゃあ、あとは当人で話をつけてくださいと心安く言えないのは。
 そう言えないのは、ここにいる全員が―――、本当は何ら非のな
かったイルカをろくすっぽ庇い立てしてやらず。一生懸命訴えてい
た言葉をちっとも信じてあげなかったから。
  イルカが涙を零し出した頃とは別種の、空気の悪さは当然、如何
ともしがたい。

  ―――イルカの孤立無援は消極的村八分とも言える。そんなつも
りじゃなかったにせよ結果としては、イルカを少なからず傷つけた
に違いない。よってたかって冗談扱いして、笑って。イルカが真剣
に話していたコトは勘違いだと決めつけて。そんなのは完全にイル
カを馬鹿にした話だ。しかも、悔しさのあまり涙してるのを、反省
して泣いてるんだと勝手に思っていた。とことん失礼なことを。

 ………イルカにした。

 

  カカシは一同の強張った顔に興味はない。すぐまた涙腺の壊れた
傍らのイルカに視線を戻した。さっき閉じた瞼。泣き濡れた顔。鼻
をぐずぐす言わせてぼろぼろ泣いて。
「イルカ先生、もう泣かないでよ。アナタは何も悪くなんかないん
だから」
 そう言うと手近にあった未使用のおしぼりを掴んで、イルカの涙
でぐちゃぐちゃな顔を拭ってやる。イルカ先生。イルカ先生。ね、
聞こえてますか。泣かないで。アンタに泣かれるとこっちまで痛い。
 繰り返し伝えると、ひくり、ひくりとしゃくり上げていたイルカ
がようやくカカシの顔を見た。
 ポロポロと泣いては訴える。

「…んせ、――…カシせんせい…っ」
「うん」
「オレ、言った…んですっ。オレ…っオレとカ、カシせんせいは」
「うん。付き合ってるんだって、言ってくれたんだよね」
「……い、言ったんです…っ」

 言葉の合間にも涙が落ちる。興奮のあまり先程のカカシ達のやり
取りは耳に入っていなかったのか、どうやらイルカはまだ誰にもこ
の事実を信じてもらえてないと思っているらしい。懸命に経緯らし
きものをカカシに言う。ちっとも要領は得ないけれど、カカシには
通じてる。
 それは事情を粗方確認した後だからではなく、イルカの恋人だか
らわかるのだ。自負だった。カカシは、ふわっと笑った

「うん。イルカ先生は間違ってないよ。泣かなくていいよ。ひとり
で頑張らせちゃってゴメンね?」
「オレ達、付き、合ってますよね。かん、勘違いなんかしてな…っ」
「そんなこと言われたんですか?」
  しゃくり上げて言い募るイルカ。頬を撫でてやると、ううっと歯
を食いしばりもっと泣く。そのイルカのあんまりな言葉に、カカシ
は眉を顰めた。

 紅から――イルカが笑い者にされてると聞いてはいたが、この分
では想像したよりも酷いことを言われていたらしい。
 風評被害と、その懸念がさっそく現実になってしまった。しかも
最悪のパターンで。救いは、イルカが孤軍奮闘してカカシと付き合っ
てるのは自分だと言ってくれていたという事。同僚らしき中忍が、
「言い張っていた」と言うくらい頑なに。 


  自分の事柄になると容易く折れて、ヒトと争うことに酷く臆病な
あのイルカが――――…


(オレのコトは譲れないって。そう思ってくれた?)


  だったらいいのにな。思う。うん。そうだったなら嬉しい。
 効果の程はまだ謎だった信頼のバリアー。けっこう機能していた
らしい。熱心に注いできた愛情パワーも、間違いなく伝わっていた
ようだ。

 少なくとも、ちゃんと付き合いを主張してくれるくらいにはイル
カの中に染み込んでいた。自信のカタチで。 
 人からそっぽむかれる事になっても、カカシの方を取ってくれた
というのは常のイルカからしたら信じられない話だし、とても勇気
の要ることだったろう。自分のために変わってくれたのだと思えば、
かなり嬉しい。


「イルカ先生」
  喜びをそのまま滲ませた声で名を呼ぶと、あの写輪眼とあのイル
カの会話とは思えない甘ったるいやり取りに微妙な空気になってい
た外野は、冷や汗を掻いた。いろんな意味で困る。
 目尻の涙を拭ってくれるカカシに、イルカは水気を溜めた目を上
げて。証明、と小さく呻いた。
「証明? なに?」
「しょうめい、しないと―…」
 必死な表情で言い募ることはカカシには意味不明だ。なんの証明。
誰に。いったい何を。イルカは唇をわななかせ、涙を零して呻く。
証明しないと。嘘じゃない証拠は。証明を。カカシ先生。―― 一瞬
だって誰かに盗られたくはない。

「イルカ、先」 
「ごめんなさい…っ」

 イルカはひくりと喉を震わせて。カカシの問いかけに被さるよう
に、何故か突如謝った。そして。ぎゅっと苦しげに寄せられた眉と、
涙ぐんだまっ黒な瞳が、カカシと距離を詰める。それが何か理解さ
せる間もなく、上忍の口布に手を掛けると、ぐい、と雑に引き下ろ
し、イルカはそのまま自分の唇を押し付けた。
 


「――――――――……ッ」



 たいした長さでもなく、唇同士を合わせただけで。キスというに
は必死さが先立ち、色気はどこにもなかったが。

 涙目のイルカは唇を離した途端、左手の甲で、どう見ても乾いて
る唇を、何故か一度拭う仕草をした。
  イルカの唐突な行為を呆然として見守っていた面々は、そのどう
見たって無意識な仕草の意味に赤面させられる。

  ――――いつもそうやって拭わなくてはいけないような、濡れて
湿った口付けばかりカカシからされてるのだと、簡単に悟らせてし
まうソレ。  


 今見せられたキスそのものより、余程色っぽい。
 本人に自覚がないぶん尚更だろう。




 一方カカシは―――謝られてあのイルカ先生から人前でキスされ
て、一瞬目を丸くした。キス。じゃれる時の忍犬が焦れて鼻面をぐ
いっと押し付けてくるのに似てる、ただ当てただけのキスだけど。
でもイルカからの想像もしなかった積極的な行為。
 別段見られたことに羞恥など感じない上忍は、次の瞬間には嬉し
さのあまりゆるみきった表情をみせた。このひとは、本当に自分を
驚かせるのが上手だ。
「イルカ先生?」
 何で謝るのと言いたい。謝る必要ないじゃない。

  一応は隠してる素顔を無防備に晒けだしたまま、カカシは嬉しく
て仕方がないという顔でイルカを覗き込む。
 一旦くっつけた身を離したイルカは、やっぱりまだ悔しいのと悲
しいのがないまぜの、何かを貫こうとしてる目をしていて。零れて
くる涙に弱々しさは不思議とない。

 イルカはぼろぼろ泣きながらアサヒの方に向き直った。
  彼女は一連の行為をちゃんと見ていた。イルカは。だから――。


「これが…っ、今のが――、証拠です…っ!」
「―――――……」
「キス、したから恋人なんじゃなくて、恋人だから――だからオレ
はするんです……!」


 つっかえつっかえ紡がれた言葉に、言われたアサヒは、身の置き
所がないといったていで、唇を噛み締める。


 他の面々が、思い当たった風に目を瞠るのが、カカシの目の端に
入った。幾人かが六回と何故か呟き、顔を更に赤らめる。―――多
分、イルカは今口にしたような内容で侮辱を受けたか何かして。悔
しくて悔しくて。きちんと反論しておきたかったのだろう。

 いじらしい。ほんと不器用なひと。可愛い過ぎだ。でも本当にひ
とりで頑張ってたんだなあ、とカカシは可哀想に思った。ねえ早く
泣き止んでと、赤い顔を宥めるように触れてゆく。もう皆イルカ先
生が本当のこと言ってるって解ってるよ。たとえ解っていなくても、
今の力業と宣言で理解しない馬鹿はいない。


 そう考えて、カカシは、くすりと笑った。困る。カカシのことを
話の上でも奪われたくないなんて。そんな風に懸命に頑張られたら。
もう可愛くて好きで堪らなく好みなんだから。


(参った。このひと、持って帰りたい)
 

  我慢ができなくなるじゃない。する気もなくなっちゃうでしょ。
 ―――今のイルカの様子だったら、その必要も無いっぽいし。


 ああ、でも。――先にこっちを片付けないと駄目なのね。
  それくらいの理性はまだ残ってるけど。





 カカシは面倒事はキライだし、この場の収拾をつけるのだって本
来なら御免だった。だけどここまできて彼女たちを放ったままイル
カを連れ出すことは無理。それは至極尤もな話で。
 よくも嘘をついてくれたな―――そういう風には決して相手を責
めようとしない優しいひとに代わって、カカシは上忍の立場でさっ
さとケリをつけることにした。

 ―――取り敢えず、まずアサヒからだ。

「オレを虚仮にしたことは償ってもらわないとね。そこのアンタ、
中忍でしょ。幾ら酒の席でも、コレは許される行為じゃないことく
らい解ってる筈だよね」

 額当てがまだ片側を隠してるとはいえ、噂に違わぬ整った顔をカ
カシは晒けだしたままキツい口調で言う。アサヒは小さく息を飲ん
だ。ふるえて、か弱く、頼りなく。許してと今更縋るような目で。
「………ご、ごめん、なさい」
「謝罪はいらない。許す気ないから」
  カカシは即座に切り捨てた。
 悪いと思って謝るなら、もっと早く口にした筈だ。保身の謝罪な
どなんの価値もない。そもそも大事なイルカ先生をこんな目に合わ
せた相手に容赦するつもりは全然なかった。
 だが、傍らのイルカが泣き濡れた顔で、どこか不安げにカカシを
見上げてくる。もしも力で制裁したら――、イルカは自分をこんな
目に合わせた女でも庇うのだろう。容易に予想がついた。

  ―――それじゃあ意味がないから。カカシは言った。


「謝罪の代わりにさあ、もっと多少なりともきっちりダメージ負っ
てもらいんだよね。だからね、ここの払い全員分アンタが払って」
「え…ッ」
「え? じゃないよ。ぜんぶで20人分のここの飲み食いの支払い、
アンタがしなって言ってんの。安いもんでしょ」

 ―――勿論、安くはない。上忍ご用達の馬鹿高い店と違って席料
からの計算がある訳でもない、せいぜい中の上程度の飲み屋とはい
え、20人が遠慮なしに飲んで食べれば相当な額だ。しかも――数
名がここの店では珍しい部類に入る銘酒を頼んでいる。匂いでわか
る。これは木の葉でも扱ってる店が少なく、非常に高い。ほんの一
杯でもかなりの値段がする。

  注文の品がずらりと居並んだ卓の上を見て、彼女は苦く顔を歪め、
すごい顔色になった。
 カカシは口の端をあげ、笑って。首を傾げる。
「それとも本気で制裁受けたいの? そっちがいいなら後日、手加
減なしでやったげるけど」
「……いえ。払い、ます…っ」
「ふーん。残念」
 ―――軽口、噂くらいならばいざ知らず、現場を押さえられての
よからぬ振る舞いだ。縦社会の忍びの里。この場合、本当に上忍か
ら制裁されても、文句など言えよう筈もない。半殺し、それに準ず
るいたぶりを受けるくらいなら、安くはない支払いをさせられる方
がまだマシだった。

「あと、オレの連れの分も払ってね。まだ一人で飲んでるから」

 カカシは、思い出したように、何げにそう付け足した。
 あっちだって気分害してんだし当然だよね、と。よく解らない理
屈でも彼女はもはや逆らえず、こうなったらあと一人や二人、支払
いが上乗せになったって大した違いではない、と頷いた。
 それが―――大きな誤りとも知らず。



「じゃ、どうせもうお開きでしょ」
 言いながらカカシは口布を引き上げ、立ち上がった。

「オレの連れはまだ飲むだろうから。此処誰か一人は残ってよ。そ
れで責任もってそこのオンナにきっちり支払いさせて」
 そして今度は周囲に言い渡す。イルカの両脇にいた同僚達が「俺
が」「俺も残る」とすぐに手を上げた。 

「イルカー…ゴメンなー…」
「おまえが嘘つく筈ないのに、信じないでスマン!」
「恋人騙られたらそりゃ怒るよな。信じてやらなくて悪かった」 

 そう言って彼らは何度も頭を下げると、ハンカチをイルカに渡す。
それに続くように「ごめんなさい」「申し訳ない」「これ使って」
とあちこちから謝罪と共にほぼ全員分のハンカチが寄越されて、イ
ルカの膝の上で小山になった。

 それを見下ろして、イルカの涙も止まった。くすぐったげに、嬉
しそうな笑顔に少しずつ変わる。 

 ちょっとそれが面白くなかったから。カカシは指を伸ばした。
「イルカ先生、帰りましょ」
「わ…!」
 手首を掴んで強引に立たせると、色鮮やかな布の群れが畳みに零
れ落ちた。  
「カカシせんせい、ハンカチが…」
「役目は済んだでしょ。放っときゃいーの」
「あの、でも」
「いいから帰りますよー。もう待てないし」


 カカシはイルカを引きずるように座敷の縁まで進み、手早く脚絆
を履かせ、通路に降り立つと。すぱっとお仲間のイルカへの視線を
遮るように襖を閉めた。



 足元に薄く灯りの灯った通路を出口に向かって歩く。オレンジ色
が肌を暖かく刷いて、引っ張られてる腕に陰影をつけた。イルカは。
息があがって、言葉がでない。尋ねたいことは山程あるのに。
 カカシの背中を見つめながらイルカは瞳を揺らした。カカシ先生。
カカシ先生。声にはならなくて、心臓がばくばくしてる。何だかま
だ、頭が混乱してる。


 確かなのは。確かなことは、このひとが自分の恋人なのだという
ことだけ。―――イルカはカカシに手首を掴まれたまま、よろける
ように付いていった。








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